報道されないライブビューイングの裏側
紅ゆずるが緻密な構築を積み重ね、役を完璧に演じてきた経験は、カールという人物を生きる糧となりました。
完璧に作り込めば、それは真実になる。
そんな彼女の男役人生、舞台人としての真髄は、前回の大劇場公演「ANOTHER WORLD」の康次郎あたりから究極の領域に入ったと思います。
つまり、彼女の中で作為/無作為の境界がなくなり、実は作り込んでいる偽の自然体や、演じる本人そのままになってしまっている自然体とも異なる、「役の人物を生きている」状態にあるのです。
象徴的だったのが千秋楽ライブビューイングで感じた彼女(=カール)の呼吸、息づかい。
これはもはや「上手い芝居」という次元ではなく、本物、カールそのもの。
きっと毎日、毎公演、カールは人生を生きているんだろうなと確信できる、そんな魂が溢れる息でした。
上田先生が東京公演のプログラムで書いているように、これが紅ゆずるはじめ生徒たちにとってどれだけ大変なことでしょうか。
退団発表したこと?
それで気持ちが、ギアがさらに入った?
紅ゆずる=カールの存在には一切関係ありませんでした。
幕が上がれば、物語の世界を、役を、ただひたすら生きるだけ。
彼女の舞台は、トップになる前からずっとそうだったではないですか。
紅ゆずるはカールについて研究し、解釈はするのだけれど、その理屈やカールについて本人が感じることを役にそのまま反映させませんでした。
「解釈」を「演じる」のではなく、「心」が「動く」ことに正直であること。
これが上手い、いや、上手いを超えた本物である証拠です。
アンゼリカの件、マルギットの件、いずれも仕方がなかった。
仕方ない、仕方ない・・・けれど!自分が幸せにしたかった。
そして自分もそういう形で幸せになりたかった。
でも、やっぱり、きっと無理だったんだ。
永遠に巡り続ける愛情。
紅ゆずるのカールはそんな気持ちを抱えながら冒頭は銀橋、ラストは甲板に立っているように感じました。
私が最も共感できる場面です。
血が通い、体温を感じ、汗と涙と酒が飛び散り、仲間たちとの笑顔が劇場にほとばしる。
舞台上に生きるカールに、「人間」とその人生を魅せられました。
この作品を選び、マルギットを配した上田久美子先生の手腕が見事であるという前提があるにせよ、綺咲愛里も素晴らしかったです。
彼女も自身の解釈や感想が「マルギットを生きる」ことに影響しませんでした。
それが古風なヒロインか、現代風か、あるいは・・・ということは関係なく、マルギットはマルギットでしかありません。
父が厳格に守る型に反発、自由を求めて家出をし、情熱的な恋に落ち、でも幼馴染の許嫁とは家族≒兄のような信頼を置いている。
常に刹那的で、奔放で、それがまた魅力的な人物。
やはり紅ゆずる=カールという存在があるからなのか、余計な力が入っていません。
心を軽くして(これが非常に難しい)、しなやかにマルギットの人生を生きていました。
愛らしく微笑ましい場面。
しっかりしてくれよ!と父親のように叱咤したくなる場面。
一人の人物に様々な感情が湧くのは、その人物が真に生きている証拠だと思います。
単に「罪な女」、とか「お姫様的ヒロイン」、という型にハマるものでもなく、マルギットはマルギットなりに必死に、幸せになりたくて人生を歩んでいるのです。
綺咲愛里のマルギットには、そんな生のエネルギーの輝きを観ました。
この役を生きたことで、綺咲愛里の何かが弾けて、今後の役、パフォーマンスがより一層突き抜けたものになることを期待し、願います。
フロリアン@礼真琴は次の記事で書きます。
ライブビューイング さすがだね、を世界中で。
ライブビューイングを鳴らすのは帰ってくるあなたです。
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