畜生の栄光と没落

畜生の栄光と没落

畜生 通りがかりの他人ほど、好奇心旺盛である。

祓いの意味

今回は、神道における「罪穢れ」と「祓い」の意味について述べます。

みなさんは、神社でお祓いやご祈祷をしてもらったことがありますか?

神前結婚式、子どもの初宮参り、七五三、厄払いなど、私たちの人生の節目で神社に参拝したとき、拝殿で神主が何やら聞き慣れない言葉(祝詞)を唱えているのを耳にした人もいるでしょう。

あれは一体何を言っているのか、その意味まで考えたことのある人は、意外に少ないかもしれません。

一度、神社に行ったときにお祓いの儀礼に注意を払ってみてはどうでしょう?

私どもの運営している会員制サイトでは、色んな種類の「祓え言葉」を、各自の適性や必要に応じて伝授しています。

神道系の人に対しては「大祓詞」の奏上を習慣づけるようにお勧めしています。

自分に合わない方法を練習しても効果はないからです。

祝詞を奏上することで、実際私たちの心の中の穢れを祓い、清めることができますし、漢文よりも大和言葉の方が日本人の「こころ」に響きやすいこともあります。

は、別名を中臣祓詞(なかとみのはらえことば)とも言います。

この祝詞は「日本書紀」や「古語拾遺」にも見られ、奈良時代以前から存在しているもっとも古い部類に属す祝詞です。他にももっと古いものは有りますが、ここでは取り上げません。

神社で唱えられる祝詞の代表格で、夏越の祓い(新暦6月30日)、年越の大祓い(新暦12月31日)に際しては必ず奏上される祝詞です。

この900字の詞の中に、日本の古代信仰の本質が見事に集約されています。

最初から「穢れ」があるのではありません。

そこには私たちの意図的、無意図的な行いが罪となり、罪が「穢れ」を引き起こすのです。

「罪」を犯した結果、「穢れ」が発生し、その穢れを清めるために「祓ひ」が行われる。

その繰り返しの中で人は神と向き合い、自分の犯した罪が贖われると考えるのが神道の基本的なスタンスです。

穢れだけが蔓延する状態を良しとはせずに、それを必ず祓って元の清浄なる状態に戻していくのです。

もともと、<祓ひ>とは穢れを祓って清浄になることであり、その究極の清浄とは、神から授けられた「本来の自分」、つまり神の心に還ることです。

特に、人間が直面する死の問題を契機として、本来の自分とは何か、人生どうあるべきかを神の救いの力を通じて自覚していくことが<祓ひ>の意味なのです。

もう1つは、この世に生を受けた人々の不幸や罪からの救済において、まず自己反省を促し、神の慈愛と包容力に身を委ねながら、身にこびりついている穢れを贖い、魂の洗濯をして新しく生まれ変わった自分になることを<祓ひ>とも言います。

お祓いを受けるというのは、このように神の前で、自分の背負っている罪と穢れを祓い落とし、心の新陳代謝を促して純粋な自分にしてもらうこと、という意味があるのです。

前の記事では、平安時代に形成された「穢れ」の概念について述べました。

当時は、今よりも衛生状態も悪く、疫病が流行したり、子どもの死亡率も高く、平均寿命も短かった時代です。

戦乱も度々起こり、都と言えども人の死骸があちらこちらに転がっていたような状況もありました。

現代よりもはるかに人の死を目の当たりにする確率は高く、「死が身近にあった時代」だったのです。

そのような状況だったなら、人は死を恐れ、死体を見たり、接触することに強い抵抗を覚えるようになり、「死が穢れ」であると考えるようになってもおかしくはないでしょう。

お産にしても、死産、流産も多く、生まれてすぐに亡くなること子どもも多かったわけで、「産むこと」が「死」に直結していた時代でもあります。

だから、お産に際しておこるアクシデントに遭遇したときに、これを「穢れ」だと見なすようになったことも当然の帰結でしょう。

平安時代に形成された「穢れ」概念は、中世には民衆にも拡がり、職業の貴賤、社会外の民、不可触民など、その後の身分差別の原因にもなりました。

この点については、別の記事で述べる予定です。

私どもが言いたいことは、物理的な汚れというよりも、「心の穢れ」の問題です。

前の記事であげた「穢れ」とは異なり、自分自身の心の中の問題に目を向けることが、現代ではむしろ重要なことだという立場をとります。

祓いの目的

神道における祓いは、個人の救済を目的とするものだけにとどまりません。

社会全体の祓いを最終的な目的として行われます。

神道において重視されるのはコミュニティ(生活共同体)だからです。

自分だけが救われればそれでよいとは考えないのです。

人々の調和を重視する神道では、「みなが等しく幸福になること」を追求します。

これは紀元前10世紀ころから始まったとされる弥生時代以降の水稲稲作文化から受け継がれてきた精神だと思います。

ヤシロ(祭祀場)がムラの生活の中心であり、同族=氏子によって祭が継承されてきた歴史が、その根幹にはあります。

だから、生活共同体に暮らしている人々全体のよい有り様(Well-Being)を祓いによって実現していくことが重視される伝統が今にも継承されているわけです。

喜びと楽しみをみなで共有できるようになって、初めて祓いは達成されるというわけです。

その祭祀の精神は、縄文文化とも重なっている部分もあります。2つの文化は700年間ほど併存していたので、両者が交流することによって、縄文的な祭祀も取り込まれていったはずです。


ャーマンが祭祀を取り仕切り、一族の安寧と繁栄を祈念してきた心にも通じるのです。

祓いのプロセス

祓いの第一段階は、自分自身の罪障の自覚を促す禊ぎです。

禊ぎとは、本来海や川など水に浸かって心身を清める洗礼のことです。

これも、ただ水に浸かればいいという問題ではなく、自分が犯した罪や穢を反省しながら洗礼に臨むのです。

禍津日(まがつび)という概念が神道にはあります。

人が一生のうちに犯す多くの罪穢が八十禍津日(やそまがつび)であり、中でも最大の罪穢を大禍津日(おおまがつび)と言います。

神道ではそういう罪穢に対しても<禍津日神>(まがつびのかみ)という神の名を与えます。

すなわち、神の名の下に、自分自身の行いを徹底的に反省し、また自覚をしていくことから祓いは始まるというわけです。

「すまない、申し訳ない、いけないことを自分はしたのだ」という自覚を促進する心の作業そのものが神の働きを介して起こると考えるのです。
 

第2段階として、罪穢を祓い捨て、本来的な自己を取り戻すための向上心を起こし、そのための努力を払います。

これを直毘(なおび)と言います。

この場合、まずは「自力」で最大限の努力をします。

慢心やわがままを捨て、素直になって自分をどう改善していったらよいか考えをまとめ、それを実行に移すのです。

これと同時に、目には見えない守護の力もいただくように魂を神に委ねることも重要です。

つまり、自分の心の内側からわき起こる「他力」=神の加護によって祓いは達成されます。

このときに生成される神が<神直毘神>(かんなおびの神)です。

最終的に、祓いが確立されるには、本人の向上心に基づく強固な意志、不動の信念が必要です。

この信念を喚起するときに現れる神が伊豆乃売神(いづのめのかみ)です。

このように、神道では、祓いの段階の進行に沿って生じる自己反省、振り返り、向上心といった心の動きのそれぞれに<神>を対応づけ、その神を観念しながら、自己浄化を試みるのが特徴なのです。

心の変容によって「神」は生成されます。

それゆえに、神は自分の心の中に住まうのだといえるのです。

「内なる神」をイメージすることで心の変容を促そうとする方法は、一種の心理療法=セラピーだと見なすこともできるでしょう。

祓いの心理学的効果

そこで、「祓い」を心理学的な観点から説明してみましょう。

人は、自分に注意が向くような状態のとき、自分の行動が適切であるかどうかをチェックしているという理論があります。

これを客体的自覚理論と呼びます。

この理論によれば、客体的自覚状態、すなわち自分自身を対象として注意を向けた状態にあるときには、自分のもっている特徴が顕著となり、その特徴に対して自分が適切な状態にあるかどうかの基準が明確になってきます。

たとえば、鏡に自分の姿が映し出されているようなとき、自分の声を録音された音声データで再生して聴くとき、否が応でも注意は自分に向けられます。

適切さの基準がはっきりしてくると、その基準に従って人は自己評価をするようになります。

多くの場合、現実の自分がこの基準に達していないために自己嫌悪感などの不快な感情を経験します。

その結果、人はネガティブな感情を軽減しようと望み、現在の自分の状態を基準に合わせることでその感情を解消しようとするのです。

祓いのときに<禍津日神>と向き合うことは、自分自身を客体化して見ることでもあります。

そうすることで、いかに今の自分が神の基準と照らし合わせてみて、不十分な状態に置かれているのか、不適切な行ないをたくさんしているのかという自己批判、自己反省の精神が生じます。

祓いの時に自分を客体として見ることは、自らの有り様を修正するためにも避けて通れないことなのです。

人と神の取り次ぎ役

神職、特に「巫女願望の強い人」に申し上げます。

神職というものは、人と神の取り次ぎ役になることが求められます。

祈願を依頼してきた人々(氏子)の家内安全、合格祈願、商売繁盛といった様々な願い事を成就させるにあたって、神職は祈願者たちの罪と穢れを振り返り、反省するように神前で導いていく役割があります。

その罪穢れを祓い清めた後で、はじめて神の加護の力が依頼者たちに働くようにすることが神職の使命です。

ご祈願、祓いを執り行う立場にある者は、それを受けようと思う人々に深い内省を喚起し、彼らの罪、穢れを洗い落とす「器」として普段から自分自身の行いも常に反省することが必要です。

神の前でその行為に赦しを請い、依頼者の穢れを一身に背負って神と向き合い、それそれの祈願が成就するように言霊を駆使していく使命を達成するためには、自分の「器」としての資質・能力をいつも磨いて生きていく覚悟が求められます。

この使命を達成するためには、まずは、自分自身の有り様を振り返って自分自身を祓うことが必要です。

これができなければ、人を祓うことなどはできません。

このことは、言葉や概念は違っていても、心理療法やカウンセリングなど「癒し」に携わっているすべての専門職にも当てはまることだと、私どもは考えています。

罪穢れを祓うことの意義

再び、大祓詞をテキストにして話を続けます。

「過ち犯しけむ種種の罪事」とは、秩序を乱し、定められた場から逸脱するような行為を指しています。

神の側から見れば、神の心から外れ、神の心を乱すような一切の人間の行いが罪となります。

大祓詞では、さらに犯したかもしれない人間の罪を天津罪、国津罪に分けます。

天津罪

•    畔放(あなはち)・・・他人の田の畔を壊して、水を多の外に出し、耕作を妨害すること 
•    溝埋(みぞうめ)・・・畔と畔の間の溝を埋めて田に水を入れないようにして耕作を妨害する
と 
•    樋放ち(ひはなち)・・・樋を敷いて谷から田に水を引いてくるのを取り放って、耕作を妨害すること 
•    頻蒔(しきまき)・・・一度種を蒔いた他人の田の上に、再び種を蒔き耕作田を横領すること 
•    串刺(くしざし)・・・他人の田の境界に竹を立てて境界を示し、耕作田を横領すること 
•    生剥(いきはぎ)、逆剥(さかはぎ)・・・人や動物を殺害すること 
•    屎戸(くそへ)・・・神聖な場所を汚すこと

このように、天津罪は人が生きていくために必要なもの、糧を奪ったり、生命そのものを絶つような行いを指しています。

人の命も、食物も元を正せば天からの授かりもの、神から賜ったものであって、それを勝手に奪うことは罪だという発想です。

国津罪

•    生膚断(いきのはだたち)・・・生きている人間の皮膚を切り取ること 
•    死膚断(しのはだたち)・・・死んだ人間の皮膚を切り取ること 
•    白人(しらひと)・・・血族結婚等によって白子が産まれること 
•    胡久美(こくみ)・・・瘤、腫瘍等ができること 
•    己が母犯せる罪、己が子犯せる罪、母と子と犯せる罪、子と母と犯せる罪⇒近親相姦 
•    畜犯せる罪・・・獣姦など畜生のような行為をすること 
•    昆虫の災(はうむしのわざわひ)・・・蛇やムカデなど地面を這う動物によって害を受けること 
•    高津神の災・・・雷によって人畜が被害を受けること 
•    高津鳥の災・・・鷲や鷹などによって人畜がさらわれる被害 
•    畜仆(けものたおし)・・・ケモノを呪い殺すこと 
•    蠱物為る罪(まじものせるつみ)・・・まじないをして、正しいものを混乱させる罪 

このように国津罪とは人間界に混乱、血をもたらし、人倫に背くことであり、その他天災やアクシデントが含まれています。

このような行為や出来事が神代の昔の「穢れ」であり、あってはならない罪、起こってほしくはない出来事だったのです。

逆を言えば、大祓詞が編み出された時代には、上にあげたような「罪」が多発していたことの裏返しでもあります。

現代人の価値基準から見ると、納得のいかない事柄も含まれているとは思いますが、古代社会では「個人」という概念はなく、「コミュニティ」中心に生活が営まれていました。

そのコミュニティの秩序を乱し、混乱を引き起こすような行いをすれば厳しい制裁が科せられる運命にあったのです。

私どもの一族は、古代人の祭祀、その意義について霊的な方法を通じて情報を持っています。

上にあげたような「罪」は、ごく普通に起こっていた事柄ばかりです。

私どもは縄文時代、弥生時代、古墳時代の遺跡に赴いて、現地でその地域特有の霊性文化、その時代に生きた人々の祭祀について、多くの事柄を学びましたが、いずれも現代人の感覚ではあり得ない儀式が行われていました。

ここではあえて述べませんが、過去記事にその一端を記していますので、古代人の霊性感覚が現代的な視点から見れば、尋常ではなかった、残虐な行為もまかり通っていたことを知っていただければと思います。

いずれにしても、確信犯的、故意による罪はもとより、目には見えない罪、自分自身に意図がなくても他者に損害や不快感を与えるような<自分が犯したかもしれない>罪についても自覚を促し、神の前で贖うべきだと考えられたわけです。

おわりに

神道には生命賛歌の精神が基底にあります。

仏教と決定的に違うのは、神道の祭祀には私たちの未来を明るく照らし出し、生きる力をもたらす人生儀礼がある事からも分かります。

罪、穢れは神様が祓って下さる。

厳しい苦行・修行もしなくて構いません。

人間は本来自由であり、反省だけではなく、自分を変えるには祝詞を奏上するだけで良いのです。

大祓詞で罪・穢れを祓えるのです。

人間には厳しい修行など必要はありません。

自分を鍛える為に修行をするなら、努力と忍耐を上手く使いこなし、生き抜く事が最強の修行になるのです。

霊力が欲しくば焦らず神々の存在を信じきり、大祓詞を唱えながら神社の空気を肌で感じ心の奥にある本当の神性(心)を出しきれば良いのです。

大祓詞の内容を読めば分かると思いますが、神々の実在と私達は繋がっている事が分かります。

私達の本性も、また「内なる神性」への確信から大祓詞が生まれました。

私達の本来の姿である神性とは心の有様そのものです。

罪、穢れを消し去り、自分を守るのが祓いなのです。

仏教は罪、業を清めると言います。

これに対し、神道は大祓詞で罪や穢れから守り、幸せの道しるべとして神々の実在を教えてくれています。

この精神が現代にも受け継がれていくことを私どもは願ってやみません。

次回は、「穢れ」概念が社会的差別を助長した歴史について考察したいと思います。

(続く)

参考文献

1.岡田米夫 1962 大祓詞の解釈と信仰 神社新報社

2.Duval, T. S., & Wicklund, R. A. (1972). A theory of objective self-awareness. New York: Academic Press.

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祓いの意味

今回は、神道における「罪穢れ」と「祓い」の意味について述べます。

みなさんは、神社でお祓いやご祈祷をしてもらったことがありますか?

神前結婚式、子どもの初宮参り、七五三、厄払いなど、私たちの人生の節目で神社に参拝したとき、拝殿で神主が何やら聞き慣れない言葉(祝詞)を唱えているのを耳にした人もいるでしょう。

あれは一体何を言っているのか、その意味まで考えたことのある人は、意外に少ないかもしれません。

一度、神社に行ったときにお祓いの儀礼に注意を払ってみてはどうでしょう?

私どもの運営している会員制サイトでは、色んな種類の「祓え言葉」を、各自の適性や必要に応じて伝授しています。

神道系の人に対しては「大祓詞」の奏上を習慣づけるようにお勧めしています。

自分に合わない方法を練習しても効果はないからです。

祝詞を奏上することで、実際私たちの心の中の穢れを祓い、清めることができますし、漢文よりも大和言葉の方が日本人の「こころ」に響きやすいこともあります。

は、別名を中臣祓詞(なかとみのはらえことば)とも言います。

この祝詞は「日本書紀」や「古語拾遺」にも見られ、奈良時代以前から存在しているもっとも古い部類に属す祝詞です。他にももっと古いものは有りますが、ここでは取り上げません。

神社で唱えられる祝詞の代表格で、夏越の祓い(新暦6月30日)、年越の大祓い(新暦12月31日)に際しては必ず奏上される祝詞です。

この900字の詞の中に、日本の古代信仰の本質が見事に集約されています。

最初から「穢れ」があるのではありません。

そこには私たちの意図的、無意図的な行いが罪となり、罪が「穢れ」を引き起こすのです。

「罪」を犯した結果、「穢れ」が発生し、その穢れを清めるために「祓ひ」が行われる。

その繰り返しの中で人は神と向き合い、自分の犯した罪が贖われると考えるのが神道の基本的なスタンスです。

穢れだけが蔓延する状態を良しとはせずに、それを必ず祓って元の清浄なる状態に戻していくのです。

もともと、<祓ひ>とは穢れを祓って清浄になることであり、その究極の清浄とは、神から授けられた「本来の自分」、つまり神の心に還ることです。

特に、人間が直面する死の問題を契機として、本来の自分とは何か、人生どうあるべきかを神の救いの力を通じて自覚していくことが<祓ひ>の意味なのです。

もう1つは、この世に生を受けた人々の不幸や罪からの救済において、まず自己反省を促し、神の慈愛と包容力に身を委ねながら、身にこびりついている穢れを贖い、魂の洗濯をして新しく生まれ変わった自分になることを<祓ひ>とも言います。

お祓いを受けるというのは、このように神の前で、自分の背負っている罪と穢れを祓い落とし、心の新陳代謝を促して純粋な自分にしてもらうこと、という意味があるのです。

前の記事では、平安時代に形成された「穢れ」の概念について述べました。

当時は、今よりも衛生状態も悪く、疫病が流行したり、子どもの死亡率も高く、平均寿命も短かった時代です。

戦乱も度々起こり、都と言えども人の死骸があちらこちらに転がっていたような状況もありました。

現代よりもはるかに人の死を目の当たりにする確率は高く、「死が身近にあった時代」だったのです。

そのような状況だったなら、人は死を恐れ、死体を見たり、接触することに強い抵抗を覚えるようになり、「死が穢れ」であると考えるようになってもおかしくはないでしょう。

お産にしても、死産、流産も多く、生まれてすぐに亡くなること子どもも多かったわけで、「産むこと」が「死」に直結していた時代でもあります。

だから、お産に際しておこるアクシデントに遭遇したときに、これを「穢れ」だと見なすようになったことも当然の帰結でしょう。

平安時代に形成された「穢れ」概念は、中世には民衆にも拡がり、職業の貴賤、社会外の民、不可触民など、その後の身分差別の原因にもなりました。

この点については、別の記事で述べる予定です。

私どもが言いたいことは、物理的な汚れというよりも、「心の穢れ」の問題です。

前の記事であげた「穢れ」とは異なり、自分自身の心の中の問題に目を向けることが、現代ではむしろ重要なことだという立場をとります。

祓いの目的

神道における祓いは、個人の救済を目的とするものだけにとどまりません。

社会全体の祓いを最終的な目的として行われます。

神道において重視されるのはコミュニティ(生活共同体)だからです。

自分だけが救われればそれでよいとは考えないのです。

人々の調和を重視する神道では、「みなが等しく幸福になること」を追求します。

これは紀元前10世紀ころから始まったとされる弥生時代以降の水稲稲作文化から受け継がれてきた精神だと思います。

ヤシロ(祭祀場)がムラの生活の中心であり、同族=氏子によって祭が継承されてきた歴史が、その根幹にはあります。

だから、生活共同体に暮らしている人々全体のよい有り様(Well-Being)を祓いによって実現していくことが重視される伝統が今にも継承されているわけです。

喜びと楽しみをみなで共有できるようになって、初めて祓いは達成されるというわけです。

その祭祀の精神は、縄文文化とも重なっている部分もあります。2つの文化は700年間ほど併存していたので、両者が交流することによって、縄文的な祭祀も取り込まれていったはずです。


ャーマンが祭祀を取り仕切り、一族の安寧と繁栄を祈念してきた心にも通じるのです。

祓いのプロセス

祓いの第一段階は、自分自身の罪障の自覚を促す禊ぎです。

禊ぎとは、本来海や川など水に浸かって心身を清める洗礼のことです。

これも、ただ水に浸かればいいという問題ではなく、自分が犯した罪や穢を反省しながら洗礼に臨むのです。

禍津日(まがつび)という概念が神道にはあります。

人が一生のうちに犯す多くの罪穢が八十禍津日(やそまがつび)であり、中でも最大の罪穢を大禍津日(おおまがつび)と言います。

神道ではそういう罪穢に対しても<禍津日神>(まがつびのかみ)という神の名を与えます。

すなわち、神の名の下に、自分自身の行いを徹底的に反省し、また自覚をしていくことから祓いは始まるというわけです。

「すまない、申し訳ない、いけないことを自分はしたのだ」という自覚を促進する心の作業そのものが神の働きを介して起こると考えるのです。
 

第2段階として、罪穢を祓い捨て、本来的な自己を取り戻すための向上心を起こし、そのための努力を払います。

これを直毘(なおび)と言います。

この場合、まずは「自力」で最大限の努力をします。

慢心やわがままを捨て、素直になって自分をどう改善していったらよいか考えをまとめ、それを実行に移すのです。

これと同時に、目には見えない守護の力もいただくように魂を神に委ねることも重要です。

つまり、自分の心の内側からわき起こる「他力」=神の加護によって祓いは達成されます。

このときに生成される神が<神直毘神>(かんなおびの神)です。

最終的に、祓いが確立されるには、本人の向上心に基づく強固な意志、不動の信念が必要です。

この信念を喚起するときに現れる神が伊豆乃売神(いづのめのかみ)です。

このように、神道では、祓いの段階の進行に沿って生じる自己反省、振り返り、向上心といった心の動きのそれぞれに<神>を対応づけ、その神を観念しながら、自己浄化を試みるのが特徴なのです。

心の変容によって「神」は生成されます。

それゆえに、神は自分の心の中に住まうのだといえるのです。

「内なる神」をイメージすることで心の変容を促そうとする方法は、一種の心理療法=セラピーだと見なすこともできるでしょう。

祓いの心理学的効果

そこで、「祓い」を心理学的な観点から説明してみましょう。

人は、自分に注意が向くような状態のとき、自分の行動が適切であるかどうかをチェックしているという理論があります。

これを客体的自覚理論と呼びます。

この理論によれば、客体的自覚状態、すなわち自分自身を対象として注意を向けた状態にあるときには、自分のもっている特徴が顕著となり、その特徴に対して自分が適切な状態にあるかどうかの基準が明確になってきます。

たとえば、鏡に自分の姿が映し出されているようなとき、自分の声を録音された音声データで再生して聴くとき、否が応でも注意は自分に向けられます。

適切さの基準がはっきりしてくると、その基準に従って人は自己評価をするようになります。

多くの場合、現実の自分がこの基準に達していないために自己嫌悪感などの不快な感情を経験します。

その結果、人はネガティブな感情を軽減しようと望み、現在の自分の状態を基準に合わせることでその感情を解消しようとするのです。

祓いのときに<禍津日神>と向き合うことは、自分自身を客体化して見ることでもあります。

そうすることで、いかに今の自分が神の基準と照らし合わせてみて、不十分な状態に置かれているのか、不適切な行ないをたくさんしているのかという自己批判、自己反省の精神が生じます。

祓いの時に自分を客体として見ることは、自らの有り様を修正するためにも避けて通れないことなのです。

人と神の取り次ぎ役

神職、特に「巫女願望の強い人」に申し上げます。

神職というものは、人と神の取り次ぎ役になることが求められます。

祈願を依頼してきた人々(氏子)の家内安全、合格祈願、商売繁盛といった様々な願い事を成就させるにあたって、神職は祈願者たちの罪と穢れを振り返り、反省するように神前で導いていく役割があります。

その罪穢れを祓い清めた後で、はじめて神の加護の力が依頼者たちに働くようにすることが神職の使命です。

ご祈願、祓いを執り行う立場にある者は、それを受けようと思う人々に深い内省を喚起し、彼らの罪、穢れを洗い落とす「器」として普段から自分自身の行いも常に反省することが必要です。

神の前でその行為に赦しを請い、依頼者の穢れを一身に背負って神と向き合い、それそれの祈願が成就するように言霊を駆使していく使命を達成するためには、自分の「器」としての資質・能力をいつも磨いて生きていく覚悟が求められます。

この使命を達成するためには、まずは、自分自身の有り様を振り返って自分自身を祓うことが必要です。

これができなければ、人を祓うことなどはできません。

このことは、言葉や概念は違っていても、心理療法やカウンセリングなど「癒し」に携わっているすべての専門職にも当てはまることだと、私どもは考えています。

罪穢れを祓うことの意義

再び、大祓詞をテキストにして話を続けます。

「過ち犯しけむ種種の罪事」とは、秩序を乱し、定められた場から逸脱するような行為を指しています。

神の側から見れば、神の心から外れ、神の心を乱すような一切の人間の行いが罪となります。

大祓詞では、さらに犯したかもしれない人間の罪を天津罪、国津罪に分けます。

天津罪

•    畔放(あなはち)・・・他人の田の畔を壊して、水を多の外に出し、耕作を妨害すること 
•    溝埋(みぞうめ)・・・畔と畔の間の溝を埋めて田に水を入れないようにして耕作を妨害する
と 
•    樋放ち(ひはなち)・・・樋を敷いて谷から田に水を引いてくるのを取り放って、耕作を妨害すること 
•    頻蒔(しきまき)・・・一度種を蒔いた他人の田の上に、再び種を蒔き耕作田を横領すること 
•    串刺(くしざし)・・・他人の田の境界に竹を立てて境界を示し、耕作田を横領すること 
•    生剥(いきはぎ)、逆剥(さかはぎ)・・・人や動物を殺害すること 
•    屎戸(くそへ)・・・神聖な場所を汚すこと

このように、天津罪は人が生きていくために必要なもの、糧を奪ったり、生命そのものを絶つような行いを指しています。

人の命も、食物も元を正せば天からの授かりもの、神から賜ったものであって、それを勝手に奪うことは罪だという発想です。

国津罪

•    生膚断(いきのはだたち)・・・生きている人間の皮膚を切り取ること 
•    死膚断(しのはだたち)・・・死んだ人間の皮膚を切り取ること 
•    白人(しらひと)・・・血族結婚等によって白子が産まれること 
•    胡久美(こくみ)・・・瘤、腫瘍等ができること 
•    己が母犯せる罪、己が子犯せる罪、母と子と犯せる罪、子と母と犯せる罪⇒近親相姦 
•    畜犯せる罪・・・獣姦など畜生のような行為をすること 
•    昆虫の災(はうむしのわざわひ)・・・蛇やムカデなど地面を這う動物によって害を受けること 
•    高津神の災・・・雷によって人畜が被害を受けること 
•    高津鳥の災・・・鷲や鷹などによって人畜がさらわれる被害 
•    畜仆(けものたおし)・・・ケモノを呪い殺すこと 
•    蠱物為る罪(まじものせるつみ)・・・まじないをして、正しいものを混乱させる罪 

このように国津罪とは人間界に混乱、血をもたらし、人倫に背くことであり、その他天災やアクシデントが含まれています。

このような行為や出来事が神代の昔の「穢れ」であり、あってはならない罪、起こってほしくはない出来事だったのです。

逆を言えば、大祓詞が編み出された時代には、上にあげたような「罪」が多発していたことの裏返しでもあります。

現代人の価値基準から見ると、納得のいかない事柄も含まれているとは思いますが、古代社会では「個人」という概念はなく、「コミュニティ」中心に生活が営まれていました。

そのコミュニティの秩序を乱し、混乱を引き起こすような行いをすれば厳しい制裁が科せられる運命にあったのです。

私どもの一族は、古代人の祭祀、その意義について霊的な方法を通じて情報を持っています。

上にあげたような「罪」は、ごく普通に起こっていた事柄ばかりです。

私どもは縄文時代、弥生時代、古墳時代の遺跡に赴いて、現地でその地域特有の霊性文化、その時代に生きた人々の祭祀について、多くの事柄を学びましたが、いずれも現代人の感覚ではあり得ない儀式が行われていました。

ここではあえて述べませんが、過去記事にその一端を記していますので、古代人の霊性感覚が現代的な視点から見れば、尋常ではなかった、残虐な行為もまかり通っていたことを知っていただければと思います。

いずれにしても、確信犯的、故意による罪はもとより、目には見えない罪、自分自身に意図がなくても他者に損害や不快感を与えるような<自分が犯したかもしれない>罪についても自覚を促し、神の前で贖うべきだと考えられたわけです。

おわりに

神道には生命賛歌の精神が基底にあります。

仏教と決定的に違うのは、神道の祭祀には私たちの未来を明るく照らし出し、生きる力をもたらす人生儀礼がある事からも分かります。

罪、穢れは神様が祓って下さる。

厳しい苦行・修行もしなくて構いません。

人間は本来自由であり、反省だけではなく、自分を変えるには祝詞を奏上するだけで良いのです。

大祓詞で罪・穢れを祓えるのです。

人間には厳しい修行など必要はありません。

自分を鍛える為に修行をするなら、努力と忍耐を上手く使いこなし、生き抜く事が最強の修行になるのです。

霊力が欲しくば焦らず神々の存在を信じきり、大祓詞を唱えながら神社の空気を肌で感じ心の奥にある本当の神性(心)を出しきれば良いのです。

大祓詞の内容を読めば分かると思いますが、神々の実在と私達は繋がっている事が分かります。

私達の本性も、また「内なる神性」への確信から大祓詞が生まれました。

私達の本来の姿である神性とは心の有様そのものです。

罪、穢れを消し去り、自分を守るのが祓いなのです。

仏教は罪、業を清めると言います。

これに対し、神道は大祓詞で罪や穢れから守り、幸せの道しるべとして神々の実在を教えてくれています。

この精神が現代にも受け継がれていくことを私どもは願ってやみません。

次回は、「穢れ」概念が社会的差別を助長した歴史について考察したいと思います。

(続く)

参考文献

1.岡田米夫 1962 大祓詞の解釈と信仰 神社新報社

2.Duval, T. S., & Wicklund, R. A. (1972). A theory of objective self-awareness. New York: Academic Press.

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さあ改訂だ。歌い踊れ猿畜生(エンタメイト)!!
甲虫装機(ムシ)の様な悲鳴をあげろ!!
NRAほんと草
畜生すぎる

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