鬼に金棒、キチガイに畜生
「畜生」から「今晩のおかず」までを手広くカバーする巨大掲示板群
日本と戦っていた中国人でさえ、親と離れ離れになった日本人孤児を我が子と同様に育ててくれていました。
中国残留孤児等で、日本に永住帰国した人数は、平成17年度までで20,102名(家族を含む)になっています。
温かい中国人に育てられたそうです。厚生省HPです。
それに対して恩を仇で返す朝鮮人ときたら・・・日本と朝鮮は戦争したことはありません。寧ろ中国とソ連(旧ロシア)からの侵略を防いで守っていた立場でした。
中国残留孤児がいても朝鮮残留孤児が一人もいない理由は皆殺しされたから。
大人の男(高齢者)は虐殺、少年や青年はシベリア送りで強制労働。女性(少女含む)は性的暴行の対象、逆らえば殺害。男児、幼児たちは用無しなので皆殺し。
鈴木さん一家とゆう子さんは収容所へ入れられてから2ヶ月後に脱走。満州を彷徨い、7ヶ月後の1946年5月、引き揚げ船で博多へ。その時、ゆう子さんは暴行により妊娠7ヶ月に。お腹が大きくなっていた。すぐに二日市保養所という中絶施設に連れていかれ、中絶させられた。#NEWS23 https://t.co/1IF92agAgC
不思議を感じさせないほど、日本人が殺戮されたため、誰もその真実を伝える人が残っていないというのが本当のところなんですね。
一体何万人、何十万人が殺されたことか。
日本は、それらの虐殺された人々に対する補償を訴えるべきです。
虐殺があったということを、記念館を作って歴史に残すべきです。
真実を、外国の圧力で歪めてはいけないと痛切に思っています。
何度も上げてる本。「 竹の森遠く」1986年に米国にて出版ヨーコさんの実体験。特に朝鮮からの引き上げ前後時の話など…「二日市保養所 」https://t.co/57kg9Aaoq4一時期、米国の教科書にも載ってた(とある団体からの圧力で…)必読、後世に残したい本日本の教科書に🙏左,英語版 右,和訳本 https://t.co/yuhEZ86G3j
二日市保養所、戦後の日本人引き揚げ時の朝鮮半島での悲惨な史実、アメリカの社会科教科書として採用された『竹林はるか遠く』から抜粋しました。
二日市保養所 終戦後、在満・在朝の女性は過酷な運命を辿った。度重なる強姦を受け妊娠する者、自殺する者が相次いだ。引揚者の治療をした医師は女性の性的被害の多さに愕然とするしかなかった。そのような女性の治療のため二日市保養所が設けられた。日本人女性を強姦した男の過半は朝鮮人であった。
戦後の日本人引き揚げ時の真実は、
語り継いでいかなければならないと思います。
繰り返しますが、
日本国民として一緒に戦争していた朝鮮人は、
日本が敗戦すると知ると手のひらを返して日本人に対して、
略奪・強姦・虐殺などあらゆる暴虐の限りをしたのです。
ソ連の裏切り・火事場泥棒強盗殺人犯罪に絡んで
日本人引き揚げ時の朝鮮半島での悲惨な史実~朝鮮人の犯罪です。
そもそも朝鮮は、朝鮮側からの要望もあり日本統治され、当時のお金で2兆円の予算を投入しインフラ・病院・学校を整え
発展し、朝鮮人の寿命が伸びた事実があります。
戦時中は、共に戦いましたが、
日本が負けた事を知るとソ連の戦争参入に便乗して日本人を虐殺したり、
日本人女性が強姦されたりした事は、紛れもない史実です
台湾にいた日本人は、台湾人と涙ながらに別れて引き揚げて来ました。
しかし、朝鮮半島からは「命からがら」逃げて来たのです。
終戦1週間前の1945年8月8日、
ソ連が日ソ中立条約(日ソ不可侵条約) を一方的に破って対日宣戦を布告して満州と朝鮮に侵攻して来ました。
窓も門も開け放しのまま去った
日本人の空き住宅、商店、倉庫等にアリのように朝鮮人が群がった。
家財、衣類、食器、装飾物、楽器、娯楽品、靴、傘、書籍、自転車、
あらゆるものをかっさらい運び出すのに忙しかった。
町全体が怒鳴り合い、奪い合い、誰もが目を皿のようにして走っていた。
ある人はトランクを担いで逃げる。
皆走る、ぶつかる、ののしる、宝物を求めて、より大きい高級住宅に入る。
逃げ遅れた日本人に対しても朝鮮人はあらゆる悪事を働いた。
北と南に民族性の違いはないのである。同じ朝鮮人、当然でしょう。
・・・朱栄福著
北で農業を営んでいた老夫婦は、年頃の娘二人を連れ、
辛苦のすえやっと現在の38度線近く迄たどりついた。
そこで見たものは、日本人の娘が次々にまずソ連兵に犯され、
ついで、保安部隊に引き渡されて、更に散散にいじめられたうえ、
虐/殺される光景であった。
朝鮮保安部隊の略奪と暴行は、残虐を極めた。
夜中に雨戸を蹴破って侵入してきたソ連兵は、
17 になる娘を父親からひったくるように連行。
娘は明け方になり無残な姿で、涙も枯れはてて幽鬼のごとく帰ってきたという。
皆、ソ連兵を朝鮮人が案内したのだった。
部落ごとの保安隊の関所では、厳重な身体検査が行われ、
金や着物や米などが取り上げられた。
一糸まとわぬ姿にされ、取調べられた若い女性もあった。
城津での惨状は言語に絶した。朝鮮人の男女が数十名の団体で押しかけ、
干してある洗濯物から赤児の着物まで剥ぎ取って掠奪され、
あげくは婦人の「提供」を要求した。
・・・正論 2005 年 11 月号 引揚民間人を襲った略奪・暴行・殺戮の嵐 より
日本敗戦後一年が過ぎても朝鮮内の日本人の移動は禁じられていた。
筆者のグループは賄賂を使ってトラックを雇い南への脱出を決行する事になった。
昭和21年9月中旬、朝鮮警察のトラックを使用する。
料金は一人千円ということで、赤ん坊も含めて、私は六千円を支払った。
市辺里で全員トラックから下ろされ、後は徒歩になったのだが、
牛車が2台待っていて使用を強制され、荷物を載せて身軽で歩いた。
牛車代は多額が要求され、次の部落では次の牛車に載せ替えられて
また金を巻き上げられる。山の中腹に煙が見えた。
そこはチゲ部隊の
交替地であった。
もうこの頃には、醵出する金は無くなっていたが、物でもいいと言われ、せっかく、
わざわざここまで運んできた物を大部分取上げられてしまう。
稜線まできたチゲ部隊に、
「こんな少しばかりで、お前ら、日本へ帰れると思うのか。もっと出せ出せ!!」
と威かくされ、残りの物まで投げ出し、疲労困憊の老幼男女は、狂気のように
この現在の38度線付近の山稜を駆け下る。
・・・生きて祖国へ5 死の引揚体験集編集委員会編
文坪の町も日に日に治安が悪くなっていた。
しばらく鳴りを潜めていた朝鮮過激分子の跳梁が始まってきた。
元山でも朝鮮人が暴徒と化して、日本人経営の店や住宅にまで押しかけて
暴行、略奪を始めたという噂が入ってきた。
ソ連兵は保安隊員の先導で日本人の住宅地区にやってきて、
家中を物色しありとあらゆる家財道具を略奪し始めた。
その内のめぼしい物がなくなってくると今度は、
「女!女!」と言って若い女性を連れ出すようになってきた。
私達若い女性は、頭髪をぷっつり切り落とし丸坊主になり、
貧しい男の子のように薄汚れた服を着るようにした。
ソ連兵や保安隊員が来ると、いち早く床下に隠れたり、
前もって準備して掘った穴に身を潜めた。
北鮮に入って来たソ連軍は、満州におけると同様、
略奪、放火、殺人、暴行、強/姦をほしいままにし、
在留日本人は一瞬にして奈落の底に投じられる事になった。
白昼、妻は夫の前で犯され、
泣き叫ぶセーラー服の女学生はソ連軍のトラックで集団的にら致された。
反抗したもの、暴行を阻止しようとした者は容赦なく射殺された。
ソ連兵に触発された朝鮮人の暴行も多かった。
富坪の避難民3000名中、その半数が死/亡した。
一日も早く引揚げさせてくれという要望はソ連軍当局によって無視され、
日本人はただただ餓死を待つよりほかない状況に追い込まれた。
やせこけた身体に乞食のようなボロ をまとい、
山を越え谷を歩き強盗にささやかな所持品を奪われ、歩哨の銃弾に倒れ、
人々は南に辿り着いた。
・・・「朝鮮人と日本人」 若槻泰雄
悪夢のような数日の怒りがこみ上げてくるのであろう、
「畜生、ロスケのやつ」「山賊朝鮮人め!」髪を振るわして、
朝鮮人の顔役がズラリ顔をそろえてやって来て、打つ、蹴る、殴るの「見せしめ」が始まる。
この日も悪い奴がやって来た! と思ったが、炊事当番の人々が知らぬ顔をしていると、
「(戦争に)負けたくせに生意気だ」と食って掛かって来た。
あまりの雑言にきっと目をすえると、「これでも食え!」と言いざま、
足もとの土砂をすくって、パッと味噌汁の鍋に叩き込んで逃げていった。
久しぶりのご馳走というので、窓、窓には笑顔が並んでいたが、
この光景に、窓の表情はたちまち青ざめた憤りに変わった。
今日もまた「命令」と称して朝鮮人のトラックが乗りつけて来た。
カーキー色のものは服といわず靴といわず、一物も余さずかっさらって行く。
これらは軍需品だから没収するというのである。
これから寒さに向かうというのにシャツ1枚でも無駄にはできない、
その貴重品をトラックに山積みにして今日も引揚げていく。
避難の人々は、最後の1枚を没収されないためにチエを絞り出した。
明日もまた現れるであろう没収団の為、有り合わせの染料で他の色に染め変えてしまった。
その翌日、朝鮮側の命令は例のとおりやってきた。
一同は一夜で変わった黒や青色の服で列を作ったが、
予想に反して今度は服装には目もくれず、意外な命令が言い渡された。
「今度は一切の所持金を提出しなければならない。
もし、この命に違反し、一銭といえども所持していることが後で分った場合は銃殺される。
では、本日ただちに提出するように」有無を言わせない強制処置である。
今後何か月かかるか分らない長い苦難を前に、金こそは命の綱である。
その命の綱を一銭残らず供出したら
――今までに子供がお腹をすかせれば芋の一つも買ってやれたのに、
無一文は死の宣告も同然である。
しかし、銃殺で脅かされた一同は、泣く泣く最後の一銭までも提出してしまった。
その夜、カユをすすった避難民一同は絶望の中に寝られぬ夜明けを迎えた。
その朝も、恐怖の的である命令が来た。
1日1日この命令で心臓を締め付けられてきた一同は、
伝令の姿が現れると、もうそれだけで体が震え出した。
「命令」冷厳な、その命令は疎開本部代表に針のような鋭さで伝達された。
「17歳以上、50歳までの男子は、ひとり残らず軽装で集合せよ」
十分の猶予が与えられて男子は校庭に集合した。
この部隊はそのまま朝鮮保安署に連行された。
残された婦人たちは「いつもの使役だとよいが…」と冷たい雨の中を去っていく
男子部隊をいつまでもいつまでも見送っていた。
この雨中の別れが、長い長い別れとなった。
この男子部隊はその夜、移駐を命じられ、遠くシベリア送りとなったのである。
・・・「大東亜戦史 8 朝鮮編」池田佑編 富士書苑
戦後の日本人引き揚げ時の真実は、語り継いでいかなければならないと思います。
繰り返しますが、日本国民として一緒に戦争していた朝鮮人は、
日本が敗戦すると知ると手のひらを返して日本人に対して、
略奪・強姦・虐殺などあらゆる暴虐の限りを犯したのです。
陸海空と英霊たちが命をかけて守ろうとした家族・祖国日本ですが、
敗戦と同時に生き残った人たちも死ぬのと勝るとも劣らない苦しみ~
一瞬にして死ぬのでなく長く続く精神的・肉体的苦痛は、
まさに「生き地獄」に落とされたのです。
二度とこの様な事にならない為には、戦争をしない事は勿論ですが、
そうしない為には、相手が手を出せない様に、手を出せば大火傷をする・唯では済まないような準備をするしかありません。
ヤクザは警察力相手に喧嘩はしません。
支那も米国には手を出しません。
そうしない為には、日本は「支那に手を出せない様に」軍備力を充実させることを早急に・確実に実施すべきです。
麻酔なしの中絶手術
【二日市保養所】
*特別養護老人ホームわきの水子地蔵の前で、毎年5月に「水子供養祭」が行われています(福岡県筑紫野市で)
満鮮からの引き揚げ中、ソ連兵や朝鮮人によって凌辱され妊娠した同胞女子の堕胎を秘密裡に行っていた施設として二日市保養所(福岡県)の存在がようやく知られるようになったが、実は同様の施設は長崎県佐世保にもあったのだ。 https://t.co/1GlfcsBBxL
今日5月14日は「二日市保養所」の慰霊祭の日です。終戦後、遠い異国の地から日本に戻る中で、女性たちが背負った言葉にならない深い傷み悲しみを、そして母親を知らず生きることを許されなかった多くのいのちを、決して忘れてはならないと思います。歌 祥子おかあさんhttps://t.co/PxV8PCl5xt https://t.co/7RXr5Xgo6V
今日は『引揚港博多湾』の特別上映会に参加しました。私の恩師・石賀信子先生の聖福寮での終戦直後の活動と、二日市保養所でロシア兵に強姦された女性の堕胎手術の事をまとめたドキュメンタリーだ。ディレクターは、私の同級生の父親。いま、この話をしっかりと子どもたちに伝えていかねばならない。 https://t.co/dtD4qsuZZW
◆恨みと怒りの声、手術室に響く
*命からがら逃げ延びた女性の史実です
引き揚げ先の博多港から「二日市保養所」(福岡県筑紫野市)に到着した女性たちは、
数日間の休養の後、手術室に通された。
麻酔はない。手術台に横たわると、目隠しをしただけで手術が始まった。
医師が、長いはさみのような器具を体内に挿入して胎児をつかみ出す。
「生身をこそげ取るわけだから、それはそれは、痛かったでしょう」。
看護師として手術に立ち会った村石正子さん(80)(*取材当時)は、硬い表情で思い返す。
ほとんどの女性は、歯を食いしばり、村石さんの手をつぶれそうなほど強く握りしめて
激痛に耐えたが、1人だけ叫び声を上げた。「ちくしょう」??。
手術室に響いたのは、痛みを訴えるものではなく、恨みと怒りがない交ぜになった声だった。
おなかが大きくなっている女性には、陣痛促進剤を飲ませて早産させた。
「泣き声を聞かせると母性本能が出てしまう」と、
母体から出てきたところで頭をはさみのような器具でつぶし、声を上げさせなかった。
幾多の手術に立ち会った村石さんには、忘れられない“事件”がある。
陣痛促進剤を飲んで分べん室にいた女性が、急に産気づいた。
食事に行く途中だった村石さんが駆けつけ、
声を上げさせないために首を手で絞めながら女児を膿盆(のうぼん)に受けた。
白い肌に赤い髪、長い指??。ソ連(当時)の兵隊の子供だと一目でわかった。
医師が頭頂部にメスを突き立て、膿盆ごと分べん室の隅に置いた。
食事を終えて廊下を歩いていると、「ファー、ファー」という声が聞こえた。
「ネコが鳴いているのかな」と思ったが、はっと思い当たった。
分べん室のドアを開けると、メスが突き刺さったままの女児が、
膿盆のなかで弱々しい泣き声をあげていた。
村石さんに呼ばれた医師は息をのみ、
もう一本頭頂部にメスを突き立てた。女児の息が止まった。
死亡した胎児の処理は、看護師のなかで最も若かった
吉田はる代さん(78)*取材当時(埼玉県川口市)らの仕事だった。
手術が終わると、庭の深い穴に落とし、薄く土をかぶせた。
手術を終えた女性は2階の大部屋で布団を並べ、体を休めた。
会話もなく、横になっているだけ。
大半は目をつぶったままで、吉田さんは「自分の姿を見られたくなかったから、
ほかの人も見ないようにしていたのでしょう」と振り返る。
女性たちは1週間ほどで退院していった。
村石さんは「これから幸せになって」と願いを込めながら、薄く口紅を引いて送り出した。
中絶手術や陣痛促進剤による早産をした女性は、500人以上にのぼると見られる。
*二日市保養所だけで
1947年7月に設立された済生会二日市病院は、
二日市保養所の建物の一部を共同で使用していた。
設立当初の同病院に勤務していた島松圭輔さん(89)(筑紫野市)は、
保養所の医師らと一緒に食事をしたこともあったが、仕事の話は一切出なかった。
島松さんは、二日市保養所が閉鎖されたのは「47年秋ごろ」と記憶している。
一緒に食事をしたことがあった医師らのあいさつもなく、
「誰もいなくなったな」と感じた時には、約1年半にわたった業務を既に終えていた。
二日市保養所の跡地に立つ特別養護老人ホームでは毎年5月、
水子地蔵の前で水子供養祭が行われている。
今年(*2005年)の供養祭では村石さんも静かに手を合わせたが、
当時を思い出しながら、むせび泣いた。
「私はこの手で子供の首を絞めたんです。
60年前、ここの手術室にいた私の姿は忘れられません……」
@hinatanococo ニュース23が二日市保養所を取り上げて『日本悪し!』な番組を放送した様ですが、あの二日市保養所を一体どうやったら『日本悪し!』に出来るのかとびっくりしました。番組は見ていないのですが、朝鮮半島での朝鮮人による強姦を一切取り上げない辺りは『非常に分かりやすいなぁ』と思いました。 https://t.co/olwGt1rQeV
二日市保養所、
朝鮮人、ロシア人から受けた暴行、虐殺、強姦を絶対に忘れてはいけません。
素晴らしいコメントを頂きましたので貼り付けました。大事なことです。
今後、もしも朝鮮半島有事が起こった場合、同じことが繰り返される恐れがあります。韓国が好きな人は要注意❗️
さん
無題
知られたくないからこの本は韓国では発禁処分なんです。
現在、韓国に6万人滞在しているといわれている在韓邦人ですが、朝鮮半島有事があった時に無事に日本に帰れると本気で思っているのでしょうか。
韓国人がやさしく手を差し伸べてくれると思っているのでしょうか。
それは大間違いです。日本人を助ける韓国人などよほどの知り合いでもない限りありえません。
平時でも日本人とわかると日本人が被害にあっても韓国の警察は助けてくれません。
ましてや有事となった時は、自分優先です。
自衛隊は救出活動が出来ません。
なぜなら、韓国政府が自衛隊の入国を拒否しているからです。
「竹林はるか遠く―日本人少女ヨーコの戦争体験記」の世界が再現されることが想像できます。
ヨーコ物語 (竹の森遠く) 概要
https://www.youtube.com/watch?time_continue=53&v=moafwYpGYmw
ヨーコ物語 (竹の森遠く) 要約
https://www.youtube.com/watch?v=PZxyvCJcRlw&feature=youtu.be