ナワバリが許されるのは20世紀まで
ナワバリを探してみましょう♪
くらえもんさんとの自然権と自衛権に関する議論ですが、コチラのブログでは珍しく一定の反響があったらしく、少しアクセスが伸びていたので続けて解説と論点整理を行ってみたいと思います。
まず、最初に指摘しておきたいのが、一つのブログ記事の中に様々な要素を詰め込み過ぎて大分説明が雑になっているという点です。コレはたまに指摘されるのですが、自分の頭の中で理解して理解したことを文章で端的に説明して、「この程度のことは当然に理解しろ!!」とやってもそれは単に独りよがりの独善に過ぎないということ。もちろん、単に個人の趣味で勝手に書き殴っているブログなのでそれはそれで結構だと個人的には考えているのですが、あくまでそれも自分本位な論理づけに過ぎないということです(-_-;)
てなワケで、まあ私自身結構飽き易い性格なので、どこまで継続させるか分かりませんと、とりあえず今回の議論に関して複数回に分けて細かく解説してみたいと思います。
で、まあ今回の記事でこのような文章を書くことになった背景なのですが、基本的には二つの論理を否定する目的で書いています。
一つは、自民党支持者などに多い天賦人権論の否定。もちろん、私自身一神教の教徒ではないので(それどころか、極めて無神論に近い立場を取っているので)人権が「天から与えられた」モノであるとは考えていません。ただし、だからといって「人権の根拠は人権を保障する国家にあり!!」とする多くの天賦人権論否定論者の見解は間違っていると考えており、その根拠として二つの要素を挙げて批判的検討を行ったことがこの議論の主旨です。
二つ目は、先の一つ目の議論と密接に関係するのですが、「人権なんてあっても絵空事!!実際に困った時に助けてくれるのは警察や軍隊といった実力組織である!!」といった論に対する反論です。そして、先に書いた「二つの要素」のうちの一つがコレで、「人権」「権利」といった抽象概念や理念(もちろん、コレは「虚構」と言っても「幻想」と言っても「フィクション」と言ってもなんでも構いません)と実際に「人権」や「個々人の権利」もしくは「国家の権利」といった理念を実現するための具体的手段(「軍隊」「戦力」「国家による社会福祉」等々)とは分離させて考えなくてはならないということ。西部邁氏などは、「これらの議論を同時に議論しなくてはならない!!」と口を酸っぱくして述べ立てていたのですが、その点に一理あると認めると同時に、私が主張しているのは、またこれらの議論を混同せずにある程度明確に区別した上で議論しなくてはならないということです。
なぜ、一般的には不可分であるように思われるこの二つの要素を切り分ける必要があるのかといえば、一つは「そもそも違うものであるから」というのそれ。これは全ての人間に「生存権」が存在するけど、また同時に全ての人間は「死ぬ」という単純な事実から明らかです。権利を実現する手段と権利そのものが全くの同一物であるなら、いつか死んでしまう全ての人間には厳密な意味における生存権は存在しないことになり、また逆に生存権を持つ全ての人間は不老不死でなければなりません(死ぬときは、自ら意志で生存権を放棄した場合のみ)。この例一つ取っても、権利そのものは、権利を保障するための具体的な手段とは独立に存在し得ることが理解できるでしょう。
また、わざわざ指摘するまでもなく当たり前のことですが、「個人の生存権」と「自衛隊」は全く別のモノだし、「国家の自衛権」と「イージス艦」も別モノです。というか、基本的に前者は抽象概念であり、後者は具体的な組織や装備品であるのでそもそも比較の対象にすらなり得ない。もしも大学の入学試験などで「この世における美の概念と、カレーライスの違いと類似点を述べよ!!」などという小論の試験問題があったら戸惑いますよね?「そもそもソレって比較対象になるの?」と・・・私の考えでは、「抽象概念と具体的な手段や組織を同一のものとして認識すべし」とする議論は、これくらい的外れな議論であるように思える・・・思えるのですが、なんちゃら思想の大家なる人物が大上段から振りかざしてくる議論でもあるので、権威主義的な多くの人々はそれを無批判に受け入れてしまう。どうでもいいですが、そういったなんちゃら思想の大家なる人物を称して「偉大な思想家・哲学者」なといういうなら、「私は宇宙の支配者か神にでもなれるんじゃないかしらん?」と思ってしまいます( ̄▽ ̄;)
夏目漱石の処女作『吾輩は猫である』の中で、主人公の猫の飼い主であるちょっとキの字の傾向を持ったくしゃみ先生は「この気の狂ったような社会では、小なるキチガイを集めて感服させる大なるキチガイが、立派な大人物と称せられる」などと言っていますが、案外世間で立派な大人物と見做されている人々もよくよくその思想哲学の内容を検証してみると、愚にもつかないような暴論を述べ立てて得々としているなどということも決して少なくありません。偉大な大先生であってさえそんなものですから、まあ大抵の人物の話は単なる世間に流布する俗説の類か、単なる独りよがりの主観的な思い込みに過ぎないのでは?くらいに、思いながら聞いておくべきでしょうね。
そして、これらの要素を切り分ける必要が理由の二つ目が、このような権利の正当性と、権利の実行手段を同一でるとしてしまうと、『北斗の拳』のような力のみが全てを決める無秩序状態になります。だって、自らの権利を行使する具体的な手段を持たない人間は、その権利が存在しないものとみなされるなら、ラオウやケンシロウになすすべもなく殺され、身を護る具体的な手段を持たない雑魚キャラは自衛権も生存権も存在しないことになるのですから、そして逆に弱者をいたぶる強者の残虐行為は全て正当化されることになります(彼らはそれを行う具体的な手段を持っているため)。ですので、近代に置いてまともに機能している社会や国家においては、人々が保有する正当な権利や権利意識と、それを実現していくための具体的な手段という両輪が存在することではじめて社会的な秩序が成り立つことになるのです。
まあ、具体的な想定例を提示していくとキリがないので、権利概念と具体的手段の分離についての説明はここまでにします。そして、次に天賦人権論否定論者の見解の誤謬について、天賦人権論否定論者の基本的な論理は、人権を実際に保証するのは国家などの具体的な力と実行手段を備えた組織で
ある、と主張し、このような国家といった具体的な権利の保障機関や、その構造がなければ人々の人権はあり得ないということから、「そもそも人間に生得的に与えられた権利など存在しない(国家があって初めて人権が実現する)」という結論を導き出します。しかし、すでに検討したように、人権そのものはそれを具体的に実現するための手段とは独立に存在し得ます(いつか必ず死ぬ人間も生存権は保有している)。
で、私はこれに対する反論として、ア・プリオリに想定される権利の存在を持ち出し、自然権に関する長々とした議論を提示したワケなのですが、このア・プリオリに想定される権利というのが予想以上に理解されていないようで戸惑いました・・・(;”∀”)
最後に、このア・プリオリに想定される権利とは何か?ということについて説明すると、権利の根拠を問い続けていった際にこれ以上は根本を遡れないという根源的権利、であり、それはつまり、正当性の根拠を説明するまでもなく、正当性が認められる権利のことです。
前回記事のコメント欄で、くらえもんさんはこのようなコメントを書いているのですが・・・
Re:Re:無題
>kattann2525さん
ア・プリオリに想定されている権利が有ろうと無かろうと自衛権はあり得ると言っているのです。
およそ人権の概念がなかろう動物の世界でもナワバリに踏み込んだ外敵を襲ったりしますが、その正当性を求めるのもおかしな話ですし、動物の世界にもア・プリオリに想定されている権利としての人権に準ずる権利があるというのであれば、議論にならないわけで。
自然権としての人権があると仮定すると、それを根拠に自衛権を語ればいいですし、自然権としての人権がないと仮定するならば、そもそも自衛権は正当性を求める必要もないわけなので、「ア・プリオリに想定されている権利を認めるか否か」を問題にしているのは結構なのですが、人権なくして自衛権なしということを例として挙げるのは不適切というわけです。
くらえもん2018-08-24 22:52:13
Re:Re:Re:Re:無題
>kattann2525さん
それを言うのなら、人間が生きたい、奪われたくないと思うのも人権を行使しようとしているのではなく、生物としての本能と捉えることも可能でしょう?
生存本能としての自衛行為が自衛権を必要としないのであれば、そもそも自衛権があろうがなかろうが自衛行為は正当化されますし、「人権なくして自衛権なし」はなんのために論じているのか分からないですよね?
「ア・プリオリに想定されている権利を認めるか否か」を問題にしているのは結構ですし、カツトシさんの論考も大変面白く拝読させていただいているのですが、「人権なくして自衛権なし」のくだりは要らないんじゃないですか?と思ったまでです。
くらえもん2018-08-25 07:13:08
そもそも私は、「正当性の根拠を説明するまでもなく、正当性が認められる権利」としてア・プリオリに想定される権利という用語を使用しているので、以上のコメントは、私に言わせれば、私の主張の正当性をむしろ保証する議論であって、なんらコチラの主張に対する反論にはなっていないというのが私の(一方的に下した)結論です。
そして、
>「ア・プリオリに想定されている権利を認めるか否か」を問題にしているのは結構なのですが、
という部分に関しては、「いや、そもそもそれについての議論をコチラが延々と続けていて、それに対して反論のコメントを書き込んできたのが先方なのですが・・・」といった感じです。ちなみに、コメント欄に書き込まれたくらえもんさん以外の反論コメントはほとんど取り上げる価値すらないと判断したので言及は控えます(-_-;)
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