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ある人は言った。
「なるたるは病気だ。読めば病むし、読もうとするやつは大体病んでるし、読んで病まなかったら最初から病んでる。」
いや、ある人っていうか言ったのは僕なのだけれど。
ぼくらのしか読んだことがない友人になるたるの話をした時に僕はそういったのだけれど、彼はそれに対して「それ誰の言葉なの?」的な事を聞いてきたから、なんか印象的な言葉を僕が引用したと勘違いしたらしい。
要するになるたるは病気なのです。
病んでる。
作品も病んでいるけれど、何より作者が病んでる。
ネット上にこの頃の鬼頭先生が病んでいたとか病んでいなかったとか、そんな風聞が聞こえたりするけれど、実際問題それにソースなんてないと思う。
本人が語っていたとかいなかったとか言ってるけれど、そんな文章僕は読んだことがない。
けれど僕は断言して言える。
ぼくらのの前半までの鬼頭先生は鬱だった。
何でそう言えるのか、っていう事はまぁ読んでいくうちに理解できるようにするけれど、直接的な表現はしない。
とにかく、鬼頭先生のアレは典型的な抑うつの症状なのですよ。
このページのどこかにも同じ文章があると思うのだけれど、鬼頭先生は『ヴァンデミエールの翼』を描いた時にこんな作者コメントを残している。
空漠たる罪悪感。自分でもはっきりとつかめないその不安につき動かされて、その罪悪感を「何ものか」に研ぎ出そうとしています。いつかそれを認識できると期待して。
これが何なのか、っていう話です。
これね、鬱病の症状なんですよ。
普通に。
特に理由もない不安にひたすらに追い詰められるような落ち着かない状態。寂寥感。何に対するものかは分からないけれど、とにかく存在する罪悪感。
ね。
調べて貰ったら分かる…のかな?
とにかく、鬱病になったらこれに日がな一日悩まされるわけなのです。
不安を覚えたことがある人、いや、不安を覚えたことがない人はいないとは思うけれど、その不安には原因があったはず。
けれども、鬱病の不安には原因がない。
とにかく不安。
そして分からないけれど、罪悪感に襲われる。
こんな状態で何を考えるかといえば、とにかく陰鬱なもの全て。
理由がないのに泣いたりする。
鬼頭先生は自分のホームページを持っていて、それは既に閉鎖されてしまったのだけれど、タイトルは「パズルピースは紛失中」だった。
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これもねえ、鬼頭先生が当時抑鬱状態であったと考えれば、どうしてこのタイトルなのか直ぐに分かる。
抑鬱の症状には喪失感が存在する。
何かをとにかく失った感覚。
何をしても無駄だし、何もできない感覚に加えて、答えが失われた喪失感がある。
ここでは具体的に「答え」と書いたけれど、実際は失ったものは答えじゃない。
本当はそういう感覚に襲われているだけに過ぎない。
上に挙げた不安感、罪悪感、喪失感が理由もなく訪れるのが鬱だと考えてもらって大体正しい。
これが自分の身に降りかかったと考えてもらいたい。
想像するのも悍ましい。
理由がないから対策も立てようがない。
けれど、当時の鬼頭先生は間違いなくそれだった。
まぁ、具体的な根拠はこれだけになってしまうのだけれど、誰しもがなるたるの中で病的なそれを感じたと思う。
人間は結局、生来的なものなしには語れないわけであって、鬱の人が全員なるたるを描けるわけじゃない。
鬼頭先生は元々の性質としてちょっといかれていて、それが鬱病によって加速したというのが実際の所だと思う。
基本的に鬱病の人は、この世界の全てを悪く捉える。
特に鬼頭先生はなるたるを読めば分かるように、感性主義者というより遥かに理性主義者であるので、理性的に世界の全てを悪く捉える。
例えば、感性的な人が世界を悪く取られるなら、何か叫びのようなものに発露されるのだと思う。まぁ、鬱だったら叫ぶ元気もないのだけれど。
けれども、鬼頭先生は徹底的な理性主義者であるので、理性的に世界を悪く捉える。
更にそれが作り上げられる世界であるならば、起こる全ては悪意に満ちた因果関係によって生じる世界が生まれてしまったということ。
どういう事かというと、基本的にこの頃の鬼頭先生にとって、世界の全ては上手くいかないのであって、ここで感性主義者だったならばなんとなく上手くいかないのだけれど、理性主義者である鬼頭先生は、理由を以て全て上手くいかなくする。
貝塚ひろ子を思い出して欲しい。
確かに全てが起こりうることであることは確かなのだけれど、徹底的に最悪である全てが選択される。
(6巻pp.106-108)
は結局、そのようなものの方が記憶に残りやすいだけなのだけれど、鬼頭先生は徹底的に悪い方向へ向かわせる。
要するにセロトニンが足らな過ぎて楽観的に物事を考えることが出来ない。
他にもいろいろこの人ヤバいと理解できる場面が存在して、その一例が作者コメントにある。
(四巻より)
「少年少女に「死の匂い」を感じるような年齢になりました。」
多分年齢は関係ないと思うんですけど。(名推理)
明らかに普通の精神状態ではない。
子供を見ただけで鬼頭先生は何か暗い感情を抱くのだけれど、その暗い感情の原因が見いだせないから、年齢に見出している。
実際問題年齢は関係ない。
鬱病だったら思考はどんどん暗い方へ暗い方へ向かっていくので、子供を見ただけで暗い何かを想起することなんて想像に易い。
このように明らかに常軌を逸しているという事が分かる。
そして何よりも『なるたる』を異様に感じさせる要因は、本人がその異常性に一切気づいていないというところ。
僕は漫画が大好きだから、数々の漫画を読んできたけれど、本当に気が狂っているのは『なるたる』の頃の鬼頭先生と『覚悟のススメ』の山口貴由貴先生と『孤高の人』の後半からの坂本眞一先生しか知らない。
他の漫画家が狂気を描く時は、「ここが今狂っているキャラクターが出ていますよ」と表現したくて書いているのが直ぐ分かる。
ここで『エルフェンリート』辺りを持ってこようとしたけれど、具合の良いシーンを探すのが面倒だからいいや。
まぁ、漫画版『ひぐらしのなく頃に』を思い出していただければだいたい正解。
そういう状況を表現しようとしたり、演じたり
ているに過ぎない。
けれども、本当に悍ましいのは本人がそれを理解していないけれど、読者がその異常性を感じ取る瞬間にあると思う。
僕は昔「狂気は表現するものじゃない、滲み出るものだ」と書いたことがあるけれどそれは鬼頭先生と山口先生の事を言っている。
鬼頭先生の話に限定するならば、先のひろ子ならば「絶望して両親を殺害してクラスメイトを虐殺して回るには、これくらいな事が起きなければならない」という事を考えて描かれているに過ぎない。
のり夫が解体される場面については、「ヤクザなら落とし前着けさせるために平然と殺すけれど、平然と殺したらヴァギナ・デンタータが停止しちゃうから、ヴァギナ・デンタータを動かせる状態で殺させなきゃな」という発想に基づいてやっているに過ぎない。
最終話でみんな死んでいくシーンにしたって、「良く創作ではドラマチックにみんな死んでいくけれど、そんなものあり得ないわけであって、死ぬとしたら普通にぱたんと倒れて死ぬだろう」という理由で淡々と死んでいくに過ぎない。
ぼくらののワクやコダマだって、そういう話に過ぎない。
(『ぼくらの』1巻pp.162-163)
(『ぼくらの』2巻p.32)
人が死ぬ物語だから人が死んでいるに過ぎない。
けれどもそれが空恐ろしくて堪らない。
鬼頭先生にとってはそれ以上でもそれ以下でもないのだけれど、それを読む読者はとにかくそれが悍ましい。
自分には理解できない異邦人が描いたとしか思えない作品が提出される。
気味が悪くて仕方がない。
鬼頭先生としては、なるたるの最終話は「色々頑張ったけれど結局上手くはいかなかった。けれどシイナには地球でお絵かきする能力があるのだから、それを使って今度こそ幸せな世界を作る」というポジティブな終わり方なんだけれど、読者にはそれが一切伝わらない。
鶴丸とキスをしたと思ってページをめくったら、全て崩壊していてシイナが煙草を吸っている。
えぇ…と思って読み進めると、唐突に母親が射殺される。アキラが突き落とされる。宮子が刺される。鶴丸が射殺される。
と思ったら腹ボテのシイナが出てきてとにかくついて行けない。
普通の人間だったらハッピーエンドを期待するわけであって、鶴丸との未来を期待するわけであって、それを裏切られる。
それをただ裏切るだけならわかるのだけれど、皆殺しにする。
その殺し方だっていくらでもあるだろうに、淡々と殺していく。
読者の心はズタズタにされるわけだけれど、鬼頭先生はそんなことを予期してさえもいない。
鬼頭先生としては、「シイナがお絵かきをするならばキャンバスである地球は白くなければならないわけで、だったら最終話で真っ白にしましょうね」という程度の意図しか存在しない。
読者にとっては愛着があったキャラクター、世界、物語なのだけれど、当時の鬼頭先生はそれを理解できない。
鬼頭先生としては「キャンバスが白紙じゃなきゃ、お絵かきできないじゃないか」というレベルの話なのだけれど、鬼頭先生は徹底的なペシミストであるので、自分のキャラクターや世界が誰かに愛着を持たれているという可能性に気づけない。
恐らくは「誰も自分のキャラに興味はない」と思っている。
いや、実際は愛着を持たれるとかいう発想が存在しないので、そんなことを考えたことすらなかったと思う。
だから、「キャンバスを純白にしなければならないから」皆殺しにする。
読者には理解できない。
ここに鬼頭先生の空恐ろしさが存在する。
本人はその異常性を全く以て理解していない。
のり夫について言えば、悲劇としてアレは確かに表現しようとはしているのだけれど、それを読者がどう受け取るかまでは理解できていない。
鬼頭先生はあくまで悲劇的なものを描いたに過ぎないのだけれど、普通はあんな殺し方はしないので、悍ましくて堪らない。
何より怖いのは、作者はこのシーンを異常だと思っていないと分かるところ。
拷問シーンを描く場合、どうしても「今、非常に凄惨な事が起こっていますよ!」とアピールしてしまうのだけれど、そんなことが一切ない。
ただ、「死ぬ最後まで鶴丸を守り続ける悲劇」を描くために淡々と解体していく。
人間的なものが存在しない。
鬼頭先生にその異常性の自覚はない。
それが「狂った漫画」に最も必要な要素なのだけれど、そんなものを自分からひり出せるはずはないので、数多の漫画家は演出をしている。
その異常性が演出ではないのは上に挙げた漫画家しか知らない。
そしてその異常状態は抑鬱症状によって引き起こされている。
このような異常性を以てなるたるは書かれているのだけれど、『のりりん』に入ってから何かがおかしい。
恐らく、その違和感というものは『ぼくらの』の頃から存在していたのだろうけれど、鬼頭先生は理性主義者の悲観主義者なので、物語を大体完成させてから描きはじめる。
よって、『ぼくらの』はその違和感は確かに存在するのだけれど、作品としては『なるたる』を描いた頃の鬼頭先生がひり出した悍ましさによって成り立っているので、最後まで良い意味で鬼頭先生らしい作品だった。
けれども、のりりんはどうだろう。
のりりんを描き始めたかそれくらいで、鬼頭先生はブログを開設する。
具体的な年月日を調べても良いけれど、調べなくても大体分かる。
そしてその肝心のタイトルは、。
内容はひたすらに自転車の話。
これを見て僕は何を思ったか。
「あ…自転車乗って運動したらパズルピース見つかったんだ…」ということ。
これを初めて見た時、鬼頭先生の事を心底軽蔑した。
「なに運動程度の事でパズルピース見つけてんの?馬鹿なの?死ぬの?」というような気持ちで一杯だった。
そして、その頃の鬼頭先生が描いた『のりりん』を読んで鬼頭先生が変わったことを理解した。
けれども、僕はこれを「のりりんに限定して起こっている変化」であると判断して、いくらでも今までのような漫画を描けるけれど、今は骨休みとしてこれを描いているのだ、と自分を納得させた。
二回連続地球が滅びる話だから、今回はそうではなくて陰鬱ではない物語を描いているのだと考えた。
けれど僕はそんなものを求めていない。
僕はのりりんを四巻くらいまでしか読んでいない。
そして『なにかもちがってますか?』の単行本が発売される。
僕だって鬼頭先生以外の漫画をいくらだって読むのだか
、順番的にこういう順番で僕が読んだという話に過ぎない。
そして何を思ったか。
「何だこのつまらない漫画は」。ということ。
鬼頭先生の魅力だった異常性が一切ない。
まぁまぁ、こんなものもあるだろう、とまた自分を納得させて、三巻くらいまで読んでそれ以降は読んでいない。
そして、『えくらの』の短編がバンチに掲載される。
(『えくらの』月刊バンチ掲載)
これを読み終わって、僕は全てを理解した。
鬼頭先生はなるたるのようなものを描かないのではなくて、もう描けないのだ、と。
能天気な愛嬌溢れる主人公が繰り広げる能天気なメカバトルが繰り広げられていた。
なるたるのようなものを期待して読むには、救いようのないゴミのような作品だった。 ※追記 参照のこと
・2015年7月21日追記
付録はバンチから直々に削除の要請があったので削除しました。
恐らくは、須藤の解説の記事で僕に何も言い返すことが出来なくなった方が腹いせにバンチへわざわざ伝えたのだと思います。タイミング的に。いや、そもそも丸々無断転載した僕が悪いのだけれど。
追記以上。
「これがあの鬼頭莫宏の最新作」であるという事が問題であって、以前感じた影を落としたような陰鬱さが全て無くなっていた。
ここに理由を求めなければならなくて、すぐ目の前にある理由は見つかったパズルピース。
つまりパズルピースが見つからない状態で描いた作品が『なるたる』『ぼくらの』であって、パズルピースが見つかった後に描いたのが『のりりん』『なにかもちがってますか?』『えくらの』。
別にそれらは良いさ。
それらなりの面白さはあるさ。
けれど僕が鬼頭先生にわざわざ求めるのはなるたるやぼくらのなのだから、そんなものは要らないね。
とかく、パズルピースが見つからないという心理状態、または様々読み取れる鬼頭先生の当時の感受、それらを考える限り鬱病であったとしか考えられないわけであって、現状の鬼頭先生は鬱病ではない。
とするならば、あのなるたるの病的な魅力は、比喩表現でもなんでもなく病気だったと考えるのが最も分かりやすい。
ある程度病んでいたから、あのような病んだものに惹かれたという話に過ぎない。
それが自転車に乗って晴れてしまった今、鬼頭先生に何を期待できるか。
何も期待できない。
それとも、自転車をやめてあの『死に至る病』と向き合う毎日に鬼頭先生に帰れというのか?
恐らく鬼頭先生は帰らないだろうし、人間として鬼頭先生にはあれに戻るべきではないと思う。
だとしたら何が期待できるか。
何も期待できない。
だから、僕は一応次の連載はチェックはするけれど、単行本を集めたりはしないと思う。
君の好きだったあの歌と、僕の好きだったあの言葉と、僕らが誓い合ったあの言葉も、今はもう遠く消えて行く。
単調に見えたあの日々も、今の僕には取り戻すことも出来ない。
さて、実はここからが本題になる。
以下の内容を書くためにこの記事は制作されている。
僕は鬼頭先生が自転車でパズルピースを見つけたと知った時、鼻で笑ってしまった。
愚かな奴だ。何を考えているんだ。馬鹿じゃないのか。と。
言葉は違っただろうけれど、間違いなくそのような事を考えていた。
そんなことであの『死に至る病』が晴れるわけがなかろうて。
あの悍ましさが、あの吐き気を催す悍ましさが、あのどうしようもない悍ましさが晴れるわけがない、僕はそう考えていた。
けれど実際問題としてどうだろう。
これを読んでいる中に、僕と同じことを、「運動なんて!」と考えた人がどれ程いるだろうか。
そして僕は次の事を知っている。
僕と同じことを考えた人の内に、どれ程に運動を実践している人間が存在するのかといえば、恐らく一人も存在しないのだろうという事。
僕だって運動したさ。
ある日一日だけ息がぜえぜえ言う程に走ってみたさ。
けれど晴れるわけなんかない。
だからこそ、鬼頭先生を馬鹿にしたんじゃないか。
けれども、ここで馬鹿なのは僕であることは、今ならそれをそうと理解できる。
逆に言えば、運動しか方法はない。
鬱病で悩むような人々は運動を拒否し、薬による快方を目指すのが常だろうけれど、それを何年続けて駄目だったかを思い出して欲しい。
それが駄目な理由が存在していて、両者は全く関係のない事象に思えて無判断に退けてしまうのだけれど、運動と鬱というものは直結的に繋がっている。
運動しなければ鬱は治らない。
馬鹿らしいと考えると思う。
でも、それが本当だからタチが悪い。
当然因果は一概には言えないのだけれど、長くくすぶるような鬱の原因は運動不足です。
本当に馬鹿らしく見えるけれど、本当にそれが原因です。
そこの因果が普通では結び付けられないから、誰しもが運動を拒否する。
まあ実際飲んでいる薬の事があるから、当然そのことも原因にはなっているのだけれど。
だから多くの人が長く長く苦しむことになる。
僕はどのような運動が必要か知っていて、具体的には「息が上がらないで少し汗ばむ程度の運動を二時間」が必要になる。
ここまで書けば大体分かっているだろうけれど、まぁ、実際にそういう状態で二時間運動したという事です。
二時間が足りなかったら三時間です。
とりあえずやってから文句を言いましょう。
頭が痛い?怠い?
二時間も体を動かせば取れます。はい。僕が知っています。
それともそれはきっと薬のせいであって、運動をそれでもする方法を探した方が良いし、それ以外に直す方法なんてありはしない。
で、息が上がらないで少し汗ばむ程度の運動を二時間って具体的にどうやるの?って所だろうけれど、まぁ、自転車が分かりやすい。
勿論、歩いてもいいのだけれど、歩く場合に必要な時間はちょっと僕は知らないので、とりあえず二~三時間と分かってる自転車による移動を試してみてください。
あとそうそう、言っておかなければならないことがあって、僕は自転車が大嫌いです。
乗らないで済むなら乗りたくありません。
まじで。
ずっとおうちに居たい。
漫画読んでたい。
けれども、現状他に方法などありはしないのだから、しぶしぶ自転車に乗って遠出しているというのが今のところです。
最初は新宿から渋谷程度の距離だったけれど、今では…どこまで行ったかな?所沢とか船橋と
川崎とかなら行ったけれど。
絶対ここまでやる必要はないけれど、正直、クッソつまらない自転車の中で少しでも楽しみを見出すために、自分が行ったことがない所に行くことによってどうにか定期的な運動を保っているというのが現状です。
楽しくないんです。
けれども、100%効果があるんです。
だから乗らざるを得ないんです。
初めに乗った動機だって、「運動しなければ寝れない」という大学の先輩である夜回り先生の言葉に従って、寝るために運動しようとしたのが始まりであって、実際寝れることはなかった。
けれども、口酸っぱく馬鹿の一つ覚えみたいに阿呆の如く「運動だ」「運動だ」と授業で繰り返す夜回り先生の言葉につかえるところがあるのではないかと期待して続けて、ある日本当に辛い状態で走り始めて、その辛さがちょうど二時間くらいたった時に和らいだという経験からこれは書いている。
その日、自転車をこぎ始めてから一時間くらいで考えていた書くつもりであった日記のタイトルは「彼はそれを死と形容した」というものであって、カミュの世界からの拒絶に対する絶望を自分に当てはめてこの絶望を死と形容したと日記にしようとしていたくらい。
なのだけれど、それが二時間経つくらいにふわりと軽くなるのを感じるわけですよ。
それから試行錯誤を繰り返して、当然2週間行かないで家に引きこもっている場合もあるのだけれど、当然調子は悪くなる。
で、また自転車で遠くに行くと治る。
大体一週間に一回は行かなければならないらしい。
そういう事に過ぎない。
世界は僕らが思っているほどに複雑にできてはいない。
ぼくらの存在がこんなにも単純だと笑いに来ているんですよ、ええ。
だからとりあえず、そういう状況になったら「息が上がらなくて少し汗ばむ程度の二時間くらいの運動」を実践してみてください。
一番重要なのは「息が上がらない」という事です。
息が上がったら二時間運動できないじゃないですか。
それを実践してみてください。
それでもだめだった場合、僕は助けられないのでにご相談ください。
僕は彼の事を感情的な問題でアレだけれど、まぁそういった仕事のエキスパートなので僕に相談するより遥かにましかと。
それくらい。
一応、この事を書くために鬼頭先生の解説を書いていたのだけれど、鬼頭先生から離れすぎた。
まぁ、鬼頭先生はきっとこんな風に運動して気が晴れてしまったんです。
一方で、なるたるの面白さってどこか?って言ったらその向うところのない暗雲とした気持ちなわけでして、それがなくなったら何が残るのか?というのが問題で、まぁ、それでも好きな方はいらっしゃるのですが、今の鬼頭先生が描く漫画に僕は興味がない。
そして、またなるたるのような作品を書くとしたら自転車に乗ってる限り描けないわけであって、だったら自転車をやめるかといえば、絶対にやめない。
そうだとしたら、もう、なるたるのようなものは絶対に読めない。
『えくらの』で確信した。
というのが鬼頭先生の解説です。
ここで、僕の「『なるたる』の解説」は終わるけれど、いかがだったでしょうか。
一時期、昔の話なのだけれど、「なるたるの解説サイト作ろうかなぁ」と思っていた時期はあった。
間違いなくそうであることがネット上に一切そうであると書いてなかったから。
だからいつか作ろうかなぁと漠然と考えていたのだけれど、こんな形でただの日記がなるたるの解説サイトになるとは思いもしなかった。
だって、「『なるたる』の竜」の記事へ多くのアクセスが無かったらそもそもなるたるの解説なんかせずに僕の性癖について書いている予定だったのだから。
実際かなり読まれているらしい。
それでもコメントはたまにしかもらえなかったけれど。
途中まで「僕の解説が完璧だからコメントが出来ないんだ」とか驕った可能性を考慮に入れていたこともあったけれど、結局僕が書いたなるたるの記事が多すぎて、質問したい内容が何処かに既に書いてあると思って質問が憚られていたのだと思う。
それに気づいてからはもう、コメントは貰えなくてもいいや、って思っていた。
僕はその程度のこと、既に書かれていることを質問される程度のことは別に気にしなかったのだけれど。
あと最期だし僕の事を労ってくれてもいいのよ?(チラ
34個記事を書いて、平均して一つにつき5000字以上書いているのだから、普通に本一冊くらいの量を書いていて、本来的に金貰ってもいいくらいの努力なのだから労ってくれてもいいのよ?(チラチラ
画像使わなかったらその倍は書けていただろうし、毎回書くたび酷く疲れてた。
そんな感じです。
これでなるたるの解説は終わりだし、実はデカダン日記の更新も終わりなのだけれど、はい。
まぁ、終わるとはずいぶん前から言っていたからね。
随分前に言った通りの事をするわけであって、予定は違いません。
ジャストオンタイムで今日この日に別にデカダン日記をやめる理由がなくなったのだけれど、まぁとりあえずこれで終わり。
散々終わらせる方向で進めてきたから、路線変更がなかなか効かない。
質問にはある程度継続して答えていくけれど、何か要望が来ない限りもう更新はしませんので。
サイトマップみたいなページも要望がなければ作りません。
ではさようなら。
・追記
コメントでちょっと関係ない話を僕が暴走気味にしていますが、あんまり気にせずに普通に労いのコメントをお願いします。
・2015年5月28日追記
今日、古い友人で漫画家の方と話すことがあった。彼はこの記事を読んだようだけれど、一つ僕が気付かなくて、彼が気付けることを言っていたのでそのことについて加筆する。
彼曰く「漫画家そもそもは大体病んでいる」だそうで。
どういうことかというと、そりゃあね、一人で引きこもって漫画を描き続けて、人と話すこともなく、外にも出ない彼らは、唯一話す相手である担当にダメ出しされるのだから、そんなの病むに決まっているだそうで。
そりゃそうだ。
(畑健二郎『ハヤテのごとく!』13巻p.162)
で、彼曰く鬼頭先生の凄いところは、それでも『なるたる』を完成させたところにあるとのこと。
あそこまで病むと、普通は続けられない。
酷い抑鬱状態になると全く何もできないか、それとも一つの事をするしか出来なくなってしまうのだけれど、そんな病状の人を見た
らば、それは取り上げられてしまうらしい。
そうなるとただあるだけの絶望へとまっしぐら。
けれど最後までそれを続けて完結させたということが、鬼頭先生は当然として、それを続けさせたまわりが凄いそうだ。
確かに。
この着眼点は僕は見出すことができなかった。
実際にね、何人か耐え切れなかった人を僕は知っている。
クジラックスとか。
正気にして漫画は描けず、漫画道はシグルイなりということなのかもしれない。
まぁ、山口貴由先生はむしろシグルイ描く前の方がよっぽど狂っていたけれど。
そんな感じです。
・追記
ん、そうですね。
・2017年11月14日追記
この追記はこの記事を書いてから2年以上後に書いているわけだけれど、僕自身、この記事を書いた当時の僕の理解は甘かったと考えている。
後々の記事でちょいちょい、自転車が理由とも限らないかもしれないという話はしていて、ただそれの認知がよろしくないようだから、そのことについて追記することにする。
当時、なんらか鬼頭先生の体調が良くなかっただろうとは今の僕も考えている。
でも、それが治った理由なんて知らない。
もしかしたら運動を取り入れたことかもしれないし、違うことかもしれない。
僕が知る由もないことに過ぎない。
鬱っていっても理由なんて幾通りもあるし、全ての鬱的なものが運動で治るとは限らない。
結局、与えられるストレスに耐えきれないから鬱屈するという場合が一番多くて、その中にあまりに不足する運動が理由である場合が存在するというだけであって、実際の鬼頭先生がどういう理由で病んでて、どういう理由で比較的健全になったのかも知らない。
ただ、それはそれとして運動をすることは悪いことではありはしないので、この記事はこの記事でそのままにしておいて、手掛かりがないような場合の手掛かりになったらなと思ってそうしていて、後の記事で何度か自転車で治ったかどうかは分からないという話はしている。
けれども、それが読まれていないと知ったので、追記で補足することにした。
会ったこともない人が過去にどんな病気をしてどうやって治ったかなんて、僕が知るわけがない。
けれども、種々の情報から『なるたる』の当時は病んでいて、『ぼくらの』後期から良くなったのではないかという話をしている。
何らか病んでて、何らかよくなったのは確かなのだろうけれど、その理由については僕は知らない。
結局、ストレスに耐えきれないから鬱病になるというパターンがあって、そのストレスを如何にして除くかが問題で、そのストレスがもう何なのか分からないようなときに、運動に目を向けてみればいいのではという話をしたいわけであって、この記事書いた当時は鬼頭先生とてそういう理由だと思っていたけれど、今の僕からしたら、鬼頭先生がどんなストレスを抱えて、どうやって解消したかなんて分かりようがないことだから、知らないとしか言えない。
ただ、追記の方で貼ったURLにもあるように、運動が何等か効果がある場合もあるから、もしかしたらこれかもね、という話です。
結局、多くの場合ストレスが原因で、そのストレスを除けば良くなることが多い。
もう何に苦しんでるか分からないような場合の時に、運動不足があり得るというだけの話。
会ったこともない人がどうやって健康になったかだなんて僕は知らないよ。
僕は間違いが認められたなら刷新すれば良いと考えていて、後の記事でちょいちょい刷新された情報を言及していたのだけれど、それが読まれていないと分かったがための追記です。
以上です。
・追記
誤解が酷いのでを作りました。
人気の健二郎ネットショップへようこそ
りますように
健二郎を育む
昨日というか今日の未明に帰宅して携帯を見て、隆二君がインスタライブをやってくれていたことを知った。岩ちゃんもやってくれたみたいだけど、両方とも通知が来なかったので気付かなかった。保存できたのは動画をアップしてくれていた隆二君のストーリーだけ。前から私の携帯とインスタの相性はあまり良くなくて、通知が来ないことがほとんどだったので新機種に変更しようと決意した。写真もきれいに撮れないし(腕の問題かもしれないけど)。
隆二君の動画は2本あって、ELLYと健二郎君は居なかったけど、5人とAKIRAさん(とスタッフさん)というレアな顔ぶれ。「AKIRAさん、誕生日おめでとうございます!」と叫ぶ隆二君。「今、まさかの三代目の皆さんに祝ってもらってます。今市と登坂のソロのツアー、まじでヤバいんで見に来てください!」と自分をさておき、後輩の宣伝をするAKIRAさんはやっぱりAKIRAさんだった。岩ちゃんはEXILEに居る時より伸び伸びしてる風に見える。臣君と直己さんは奥まっていてよく見えなかったけど楽しそうだった(雑すぎる)。直人さんの「ミスターLDH、AKIRAさんの誕生日!イエー!」という野太い叫び。「マジで俺らのアニキなんです!」とろれつが回らない隆二君。ニコニコ笑うAKIRAさんの大人感に比べて、酔ってフニャフニャになっている三代目の弟感が可愛かった。
直人さんは相当酔っぱらってて、アップになると真夜中のオネエのようにヒゲが伸びていた。「やめましょ。おやすみなさいって言って!」という口調もオネエで可愛かった。無視してライブを続ける隆二君。「みんな今日思ったのがー、心から皆さんの幸せを思ってる人たちだなと思いました。未熟ですがー僕らアーティスト活動頑張ります」。
ツインボーカルはソロツアーが始まっていて、EXILEの3人はEXILEのライブに向けて準備が進んでいて、集まるのは久しぶりのはずなのに、しかもAKIRAさんも居るのに、驚くぐらい三代目は相変わらず三代目だった。それぞれが違う場所で魂を削るような真剣勝負をしていても、戻ってくると元通りになるのは、ベースがここにあるからなのかな。やっぱり運命の7人なんだなと思った(2人居なかったけど。しつこいけど)。
AKIRAさんのインスタより。誕生日、おめでとうございました。いつも三代目に優しく接していただいてありがとうございます。
インスタライブの流れで「THE FOOL 愚者の魂」のページをついにめくってしまった。
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