明智がお取り寄せクチコミで大好評!
こんにちは(≡^∇^≡)
「竜王戦」第4局が11月24日と25日、福知山城で行われます。
永世七冠達成・国民栄誉賞受賞の “生けるレジェンド” 羽生善治竜王が福知山城で対局を行う、注目のイベント。
京都福知山市のシンボル、明智光秀が築いた福知山城。
さとふるクラウドファンディングで、この竜王戦への支援が2018年8月1日スタートしました
■プロジェクト概要
京都府福知山市 決戦は福知山!羽生竜王と挑戦者を、みんなの力でお迎えしたい!
目標寄付金額:1,000,000円
寄付受付期間:2018年8月1日~10月1日
将棋タイトル戦の最高位「竜王戦」が、
明智光秀が築いた福知山市のシンボルの福知山城にて2018年11月に開催されることが決定しています。
これに伴い、福知山市の魅力を一人でも多くの方に発見してもらい、
「竜王戦」を、市民だけでなく福知山に関わる方々、将棋ファンの方々の思い出に残るものにするため、
天守閣1階部分を活用した“特設対局室”の仮設、
及びこども将棋教室、こども将棋大会の実施のために、寄付受付を開始します。
プロジェクト詳細URL:
さらに詳細はこちら
今後のスケジュール
- こども将棋教室の開催:2018年 8月5日・25日
- 福知山城 対局場の準備:2018年8月~10月
- 福知山城 対局場の仮設:2018年11月下旬
- 竜王戦 福知山城対局の開催:2018年11月24日・25日
(同期間内でこども将棋大会の開催)
寄付金額の使い道
いただいた寄付金は、福知山市の財源とあわせて、「竜王戦 福知山城対局」の以下の経費に使わせていただきます。
- 福知山城内の、対局場の仮設経費
… 畳スペースの仮設増築、防寒措置、防音措置など
- 8月のこども将棋教室、11月のこども将棋大会の経費
… 運営費、こどもたちへの記念品など
-
クラウドファンディングのお礼品
※この事業は10,000円以上の寄付でお礼品が付きます。
※お礼品は福知山市外にお住いの方のみへのお届けとなります。
※画像は、昨年の竜王戦の扇子をサンプルとして掲載しています。
【クラウドファンディング限定】竜王戦記念扇子&明智光秀本のセット
[京都府福知山市]寄付金額10,000円
羽生善治竜王と挑戦者の揮毫入り第31期竜王戦記念扇子と、福知山市オリジナルの明智光秀本のセット!
このプロジェクト限定のお礼品セットを、ご支援いただいた方にお贈りします。
【第31期竜王戦記念扇子】
将棋のグッズといえば、扇子です。
第31期竜王戦七番勝負の開催を記念してつくられる特製扇子を、お礼品としてご用意しました。
扇面には、羽生善治竜王と、挑戦者(2018年9月に決定)の揮毫入り。
【福知山市オリジナルの本『明智光秀の生涯と丹波 福知山』】
「竜王戦」の舞台となる福知山城を築いた明智光秀。
福知山の歴史を語るうえでは欠かせない「名君」として慕われる一方で、全国的には「謀反人」というイメージが広まっています。
そんな謎多き光秀の生涯に迫り、福知山との関わりを解説した、最新の歴史研究に基づく“光秀解説本の決定版”が、天守閣再建30周年を記念し、昨年誕生!
監修は、歴史ドラマの時代考証等で知られる、戦国史研究の第一人者小和田哲男氏。
2018年8月現在、取り扱い箇所は福知山市内のみというレア本です! 福知山を愛するあなたのお手元にぜひお置きください。
■内容量/製造地
扇子1本
本1冊
製造地:日本国内
■注意事項/その他
・お礼品セットの発送は、生産の都合上、「竜王戦」対局終了後の平成30年12月以降になります。あらかじめご了承ください。
※画像は、昨年の竜王戦の扇子をサンプルとして掲載しています。皆さまにお送りする扇子は、今年秋に作成されるものですので、現状写真がありません。あらかじめご了承ください。
お礼品ID |
9900012 |
製造地 |
日本国内 |
発送時期 |
2018年12月中旬ごろより順次発送 |
提供元 |
京都府福知山市役所 |
寄付証明書の 送付時期目安 |
申込完了日から2ヵ月程度 |
注意事項
【寄付に関する注意事項】
- 目標金額に到達しなかった場合の寄付金の返還はございません。
- 目標金額に到達しなかった場合、お預かりした寄付金は自治体内で使い道を検討し、自治体が取り組む各種の事業に活用させていただきます。
- 目標金額を超過した寄付金の取扱いについては、各自治体の判断となります。
- また、クラウドファンディングの目標金額到達前に、自治体またはさとふるの判断により、寄付の受付を停止する場合があります。あらかじめご了承ください。
- お礼品をお受け取りいただける金額以上の寄付であり、且つ、お受け取り辞退のご希望がない場合は、目標金額到達の如何を問わずお礼品をお受け取りいただけます。
- サイト上で表示される寄付金額の数値は、入金が確認できた寄付金の合計となりますため、即時反映されるものではないことをご了承ください。
- 受付終了後に入金が確認できたものについては、受付終了後に数字を更新いたします。
2018年8月2日現在の寄付達成率は3%
2018年10月1日まで寄付できますよ。
将棋ランキングW1位目指してます
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「英雄たちの選択」
小牧長久手の戦いその後です。
第2集
第一集は
ここです!
小牧長久手の戦いは本能寺で明智光秀に討たれた
織田信長のあとを誰が継ぐのか?と争いでしたね。
この秀吉が織田信長の息子信雄を追いやった事に切れた家康の戦いは
全国に拡大して行きました。
小牧長久手は秀吉10万VS家康1万7千で
予想外に大敗北してしまった秀吉でした。
その後も秀吉は朝廷工作
分断作戦
調略
と巧みに動いて行きました。
ところが近年石田数正の書状が発見されて
そこには秀吉が
信長と
急に呼び捨てになった事が記されていました。
この番組は2016年6月16日の放送です。
1584年小牧長久手の戦い
その翌年
1585年には秀吉は朝廷に行って関白に就任
従5位ですからそこそこの位です。
ところが
1586年天正の大地震が岐阜でおきます。
よって家康は戦いを一旦辞めて復興に入りました。
1587年秀吉は九州平定
その後そこから朝鮮征伐へと走りました。
家康が生まれたのは1543年で死んだのは1616年
秀吉は家康よりも10歳年上で
1532?年に生まれて1598年に死んだんだけど
死んだや否やの関ケ原1600年!
1584年天正12年4月9日長久手の戦いですから
大体家康31歳秀吉42歳くらいですね。
秀吉は
中国の毛利
越後の上杉
関東の佐々
九州(肥後)の大友
四国の長曾我部
を支配下においていて。
北条佐々~根東 雑賀周はまだ勝手にやってる感じではあったのですが
この後完全にやり込めているのでまたそこも後でやりますよ。
それで秀吉は長久手の戦いの翌年には
一向一揆も紀伊半島であったし本願寺に手紙を書いていて
宗教団体も味方につけようとしてたのですが
家康は家康で織田の三男の信雄を呼んで
たぶんこう言いましたね。
「見たか?あの猿!お前が思う以上にとんでもねぇ猿だから
もう騙されない方がいい」
信雄はたぶんこう言いました。
「やっぱり農民ですね!やる事も」
それで織田家では三男の信雄が20歳で家督を継いで
家康がそれを後押しするのですが
この織田の息子が信長から譲り受けた城を次々に秀吉は壊して行きました。
琵琶湖 犬山城
加賀城
竹ヶ島城
小牧城
清洲城
と次から次へと秀吉は信長の城を潰して行きました。
そして秀吉はこういいました。
信雄から籠城の申し出があってもそんなの聞くな!
皆殺しにしろ!
竹ヶ島城では堤を拵えていた信雄ですが
秀吉得意の水攻めで
木曽川の水をジャージャージャージャー流し込んで
城を水浸しにしましたが
この辺りは確かに木曽川が大きくて川の畔に城があります。
その様子が小牧城の天守閣から全部見えた物ですから
家康はその様子をじーっと見ていました。
秀吉は如何に嫌がらせをして家康を小牧城から出そうか?ばかり
考えていたと言います。
それでも家康が小牧城からなかなか出てこないので
秀吉は朝廷に行って言い寄って従5位=少将に就任しますけど
これは本当は征夷大将軍貰いたかったのですが
貰えないので仕方なく朝廷がくれた物で~
信長いないし!農民なのでなにが何でも地位が欲しかった秀吉です。
それでも家康が動かないので舞台を尾張から伊勢に移して移動しました。
信雄はしかたがないので講和を結んで天正12年1585年の1
月です。
長久手で秀吉が敗戦してから7か月後です。
それで秀吉は信雄に人質をよこせば北伊勢軍は返すと言いました。
それで信長の3男があっさり秀吉と和睦してしまったものですから
家康は戦う術を無くします!
信雄はたぶんこう思ったと思います。
あのジジイたちは二人とも俺の父親の仇を取るふりをして
自分が天下を取るつもりだよ!
天正13年1586年の3月には和歌山の根来・雑賀衆を秀吉に攻められてて
仕方がないので家康も秀吉と和議を結びました。
秀吉は長曾我部四国
佐々成政の越後を征伐
織田家と家康と和議してからはそれはやりたい放題
長久手の戦いから九か月後には大暴れして日本もめちゃくちゃにして
天正13年1586年の7月にはそう大した地位でもない従5位に主任
学校では関白と習うと思います。大納言でも征夷大将軍でもないわけです。
それでイライラして全国の諸大名に33通の手紙を出して
この度わたしは関白になりました...
と書状を書いたのですが
その中の石田数正の手紙の中にこう書いてありました!
「あの信長も朝廷の地位は貰えてないので俺の方が偉いですよ!」
君のお父さんの仇を討つは大ウソで姑息な奴だと誰も思わないと思った
頭の悪い秀吉は全国の大名に手紙をこう書いてます。
わたしはこの度関白になり、信長よりも偉いですから
家康の指示には従わないでください!w
頭のいい家康にとってこの秀吉の大バカの行動は
青天の霹靂であり、絶好のチャンスだと思いました。
格いう家康も武田軍法を徳川軍法に変えて
全国に教えていたものですから
また秀吉がえばって出向いていくと機密事項が漏れると思っていて
情報漏洩をかなり恐れていました。
調略が秀吉はうまいので、家康包囲網の完成です。
秀吉は家康に使者を送って
臣従を迫り軍門に下らせます。
家康は上洛を受け入れました。
ま~家康は、秀吉がかっとばしているのでどうなるのか?流れが見えなくなったとは思いました。
また家康はこうも思っていて
長久手で秀吉の重要な家臣3人を討ったので秀吉はもうカンカンに怒ってるしな!
ここで上洛しても
どうせあの猿は死ぬから死ぬのを待とうと思いました。
石田数正が裏切ったが一度は勝った敵だしなとか
いろいろ考えた家康です。
しかし家康は東国の武士が誰も秀吉の手つかずなので東国の武士に結集して貰おうと考えました。
愛知の豊田市の荻生城を三河の拠点として家康は東国の平定を計画します。
荻生城は山城ですから周りの様子がよく見えました。
家康は長期戦を覚悟しました。
一方秀吉はこう思ってました。
みんな思う壺だ!俺の方が上だ!西には家康の仲間はもういない。
長久手の様な苦戦はもうしたくはない。
家康をなんとか!臣従上洛させたい。
決戦か心中か!
薄氷を踏む思いである。
持久戦に持ち込むには長曾我部も当てにはならないし
北条もあてにはならないし・・・。
武田信玄の重臣の石田数正を家康の取られたので
秀吉も躊躇してたのですが
天正13年1585年の冬、浜松城に籠った家康は
こういいました。
秀吉は火事場泥棒だ!武器を奪われた。
信長の城から秀吉は武器を盗んでいた。
その盗んだ武器で決戦を辞さない覚悟だ!と決戦を即決して
来年正月15日以前に出陣すると諸大名に通達しまして
善戦基地は
大垣城ですが
ここは行ったことがありますね。
家康の領土です。
石田数正の事も大垣城に書いてありました。
兵糧備蓄!
食べ物は百姓ですから蓄えていた秀吉です。
家康の滅亡は必至になりました
が!
天正13年1586年11月29日午後10時
中部地方に天正の大震災があって
白川村には山が削れていて痕跡が残っているのだけど
帰雲という地に500人暮らしている村があって
天正13年1586年の地震で崩れた部分が剥げています。
大名も下々もみんな地震で死んでしまった。
3つの断層があってそれが一気に動いて崩壊したようです。
四日市~養老桑名断層
生川断層
阿寺断層と能登半島から
縦の断層が一気に崩壊して
マグネチュード8.0で熊本地震7.3よりも大きい地震でした。
記録によると秀吉は琵琶湖の明智の城にいましたが
全てを投げ出して安全な大阪に逃げたらしい。
兵糧を備蓄してた大垣城も燃えてしまって
岐阜は家がひとつもない。山内勝豊が仕切っていた元信長の城の
長浜城も崩壊
城下町は火の海だったらしい。
よって秀吉は善戦基地のすべてを失って
家康には被害がなかった!
秀吉は妹のアサヒ媛を家康の人質に渡しました。
家康は上洛要請を拒否
秀吉は大政所を家康の元へ差し出しました。
母も妹も人質に出した秀吉です。
秀吉に家康は上洛表明を下げてくれと言い。
天正14年
1587年地震のあくる年の
10月27日に大阪城で秀吉に謁見します。
上洛大儀と頭を深々と下げた家康。
長久手から2年半後です。
地震で争ってる場合ではなくなり
家康はこの時は14万の兵を持っていた。
そんな感じで天正地震で一回はオチつぃたのですが
その4年後天正18年1590年には秀吉は45歳くらいで
小田原攻めですよね・・・・。
22万の大軍を見ただけで北条が降伏したという。
その後秀吉は家康の領土を全部奪って~家康に
なにもない江戸の湿地帯を埋め立てろと
命令。
頭に来た家康はもともと小牧城から埋めたては得意ですから
関東中の湿地帯を埋め立てて~
秀吉はその力に驚きながら!
もうすぐ死ぬのですが秀吉は1598年に死んで1600年
やっと死んだ!死ぬの待ってたし
やっと秀吉は死んだと関ケ原1600年
慶長19年1614年前述の通りで
大阪冬の陣
慶長20年1615年大阪夏の陣で
秀吉亡き後の息子を討って大阪城を埋め立てて!
それから260年江戸幕府は続いて行った。
頼山陽!日本外交史によると
家康の天下取りは大阪城にあらずして
関ケ原にあり関ケ原にあらずして小牧長久手にありと書いてある。
建築が好きな秀吉でしたが京都に御殿をどんどん建てたけど
どれも安物だったらしい。
頭に来て家康から徳川三代まで京都に寺を建てたので
京都は寺だらけらしい。
家康は大阪城も建て直して
小田原での秀吉を思いだすと建て直した大阪城で震えていたらしいが
秀吉の小田原攻めは徳川3代まで震えてい
て
京都を寺院だらけにしたらしい!
大阪の陣のあと・・・自分まですぐ死んだ家康は
たぶんこう思ったと思います!
秀吉が死んでよかったけど俺も寿命だわ!
というお話ですが・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
感想はやっぱり信長が死んでから遺産相続みたいに
信長が城を沢山持っていたのでその奪い合いになっていって
連鎖して大阪城も自分の物に家康はして
つまり人の遺産の奪い合いですから人が死ぬのを待っていて
それで時が流れてるんだけど
こういう光景は今でもよく見る。死んだとたんに莫大なる遺産の奪い合い!
それでも世の中は流れていくのだけどみんなそれなりに
努力もしないし!いろいろ問題があるけど
人生が終わっていくのをよく見ますから
なので~そういうのを気にしないで~
遺産の城を見ない方がいいですよ。
生きてるうちに自分を貫いて努力できる事は努力して
自分のやりたい事を貫けるようになる事が大事だと思うし。
秀吉の小田原攻めはほんと怖かったと思うけど
ま!22万も兵を仕切って北条を脅してすごい猿ではありますが
兵糧攻めが百姓だから得意で百姓でも天下を取ればいい気になって
信長を呼び捨て!!ま~これだけ読んでも滅多な事には驚かなくなりますので
また歴史の記事は書きますから、読んでみてください!
次回はなんだか!ちょっと忘れてしまったけど家康が征夷大将軍になる辺りですから
お楽しみにね・・・・それにしてもみんないずれ死ぬのでね!
生きてる間に自分が好きな事してくださいね!
実際1598年に秀吉が死んだ時には家康は
早く死んでよかったと言ったそうですけど、
その後の張り切り様ったらなかったですよね!w
織田家は信長亡き後も清々しく続いて行って江戸時代も
さぞかし清々しい織田家であったとは想像できます。
織田家はみんな信雄も感情豊かで魅力的に動くと思いますよ!
いろいろな人生があるけど織田家は悪くないと思う!!
織田信雄は山崎の戦いから大阪の陣に至るまで~で人は裏切る生き物だとさぞかし学んだ事でありましょう!
家康が秀吉の息子も孫も殺したのは秀吉が織田家にやった事の仕返しなので
自分がやったら必ずやり返されると思う。秀吉は実はかなりチキンで自分が一番大事だな!
でわまた!
明智の各種を揃えました。売り切れ続出です、購入はお早めに
十二社という地名がある。
じゅうにそう、と読む。
僕にとって身近な所では、新宿の高層ビル街の西側、新宿区西新宿4丁目近辺の旧地名で、今も十二社通りという名前が残っている。
新宿中央公園と熊野神社の鬱蒼と繁る木々の合間に、都庁をはじめとする高層ビル群をのぞみ、適度な日陰と木漏れ日を浴びながら緩やかなカーブを描く、都心とは思えないようなしっとりとした街並みを好ましく感じる道である。
十二社神社、十二所神社、十二神社という名の神社は全国に存在し、群馬県や新潟県などで信仰されている十二様と称する土着の山の神を祀り、この神が年に12人の子を産むことから山の豊穣性を表しているとされ、別に「天神七代・地神五代」と言われる熊野権現を祀った十二所権現社が由来の神社もあって、新宿の十二社は熊野系列である。
十二社に因む地名は、鎌倉にもある。
散策に相応しい東京近郊の街を1つ挙げよと言われれば、僕としては鎌倉が筆頭になる。
学生時代から、ふらりと気分転換に出掛けたくなった時に、JR横須賀線に乗って鎌倉に出掛けたものだった。
鎌倉駅前から、灯籠と桜並木が並ぶ段葛が設けられた若宮大路を鶴岡八幡宮に歩く道路の風情は古都に相応しく、また若宮大路を南側に向かって由比ヶ浜に突き当たり、右手に江ノ島や稲村ヶ崎を抱く相模湾を一望の下に見渡す解放感も、格別の味わいがある。
源頼朝が鎌倉幕府を開いた際に、山を削って多くの武家屋敷を造成したことで、山の保水力が低下し、雨が降るたびに若宮大路が土砂や水で溢れるようになったため、一段高い通路を建設したのが段葛であるという。
免許を取得してからは、車やバイクで鎌倉を訪れる回数が増えたけれども、唯一の難点は、周辺の渋滞だった。
東京方面から車やバイクで鎌倉に向かうためには、横浜から上大岡や大船を経由する県道21号線・鎌倉街道がオーソドックスである。
大船駅の先にある小袋谷交差点からは道幅が狭隘になり、横須賀線の踏切が設けられていることから渋滞が避けられない。
北鎌倉駅前から円覚寺、東慶寺、浄智寺、明月院などの前を通過し、再び横須賀線の踏切を渡って左に建長寺を臨み、鎌倉七口の1つである巨福呂坂洞門をくぐって、下り勾配で鶴岡八幡宮の外堀に突き当たるという道筋は、いかにも古都に近づいていく情緒に溢れているのだが、どうしても尻込みしてしまう。
代わりに僕が愛用したのは、横浜横須賀道路の朝比奈ICから、朝比奈峠を越えて鎌倉に向かう金沢街道である。
鎌倉七口の1つ朝夷奈切通に沿っていて、京浜急行金沢文庫駅の横手に設けられた小さな乗り場から、鎌倉行きの路線バスが運行されている。
朝比奈峠の標高は100m程度であるが、朝比奈ICからの県道204号線は、大都市近郊とは思えないほど急勾配のヘアピンカーブになり、交通量も比較的少ないため、バスに乗っていても、バイクで攻めても、楽しい道だった。
鎌倉霊園を過ぎて下り坂がなだらかになると、山々の合間に古びた人家や寺社が点在する田舎道となり、首都圏にこのような土地があるのか、と目を見張るほど鄙びた光景が広がる。
ここが鎌倉市十二所で、地名の由来は、沿道の光触寺の境内に設けられていた熊野十二所権現社、現在の十二所神社である。
十二所を過ぎ、周囲がやや開けたあたりの岐れ路交差点を北へ向かえば、鎌倉宮がある。
小学生の頃に家族で鎌倉を訪れた際に、ひと通りの名所は回ったのだが、中でも、父親の後醍醐天皇とともに鎌倉幕府を倒して建武の中興に力を尽くし、足利尊氏の弟の直義によって殺害された護良親王が祀られている鎌倉宮は、幼心にも強烈な印象を残した。
護良親王が9ヶ月も幽閉されていた土牢を目の当たりにして、このような暗く侘びしい穴蔵に人間が長期間閉じ込められたことがとても信じ難く、思わず後ずさりしたくなるような恐怖を覚えた記憶が、今でも鮮明である。
鎌倉駅から「鎌倉宮(大塔宮)」行きの京浜急行バスが頻繁に運転されていて、大人になって再訪した時には、幼少時ほどの凄みは感じられなかった。
その鎌倉に、大阪行きの夜行高速バスが走り始めた。
運行する事業者は、江ノ島鎌倉観光電鉄バスと南海バスで、江ノ電バスにとっては初めての夜行高速バスとなった。
南海バスは僕にとって思い出が多い会社で、故郷である信州へ初めて夜行バスの旅を経験したのが、南海バスと長野電鉄バスが共同運行する難波と長野・須坂・中野・湯田中・志賀高原を結ぶ夜行高速バスであった。
南海バスの手による高速バスの歴史は、昭和63年10月の和歌山-渋谷間夜行高速バスの開業に始まり、南海は「サザンクロス」号、共同運行の東急バスは「ミルキーウェイ」号と、参入する会社が別々に愛称を付ける最初の例となった。
その後に次々と開業する南海バスの高速路線は、全て「サザンクロス」号で統一され、共同運行会社は別々の愛称を名乗るか、「サザンクロス」に揃えるか、もしくは愛称なしで運行することとなる。
平成元年6月:なんば-富山
平成元年7月:堺・なんば-佐世保・ハウステンボス「コーラルエクスプレス」
平成元年12月:なんば-長野・須坂・信州中野・湯田中・志賀高原(蓮池)「ナガデンエクスプレス」
平成元年12月:堺・なんば-岡山・倉敷「リョービエクスプレス」
平成2年3月:堺・なんば-鹿児島「サザンクロス」
平成2年8月:堺-松山「どっきん松山」
平成2年10月:堺-東京「ドリーム堺」
平成2年10月:なんば-福井・芦原温泉
平成2年11月:堺・なんば-博多・筑前前原「サザンクロス博多」
平成2年12月:堺・なんば-広島・呉「ヴィーナス」
平成2年12月:なんば-東京「ドリームなんば」
平成3年8月:和歌山-西船橋・TDL・千葉
平成8年3月:大阪-鳴門・徳島・阿南・室戸「エディ」
平成14年8月:なんば-高松「たかなんフットバス」
平成17年3月:なんば・大阪・京都-秋葉原・四街道・成田空港・銚子
平成17年5月:神戸三宮・な
んば・京都-橋本・昭島・立川・玉川上水
平成18年3月:堺・なんば・大阪・京都-藤沢・鎌倉・大船・戸塚
平成20年4月:堺・なんば・大阪・京都-柏崎・長岡・三条
平成29年4月:なんば・大阪・京都-鶴岡・酒田
かつて、関西から信州・首都圏方面に向かう南海バスの東行き路線は、南海難波駅の直上にあるサウスタワーホテル5階のエントランスに設けられた、なんば高速バスターミナルを発車してから、名神高速道路ではなく、東西の名阪自動車道と名阪国道を経由していた時期があり、各座席に備え付けられていたマルチステレオチャンネルで落語番組などを楽しみながら、奈良盆地の夜景に見入ったものだった。
残念なことに、富山・福井・岡山・広島・高松・松山・博多・佐世保・鹿児島への路線は、南海バスが撤退するか、または廃止されてしまい、和歌山・堺・なんば線は1本に統合され、代わりに銚子・立川・鎌倉といった首都圏近郊や長岡・酒田などの、他社路線が走っていない隙間を埋めるような路線網を展開している。
車体に大きくNの頭文字をデザインし、「SOUTHERN CROSS」とロゴを印したダイナミックな塗装も好ましく、僕のようなファンにとっては、またまた面白い路線を始めたぞ、というワクワク感を演出してくれる、貴重な会社なのである。
鎌倉線もその1つで、思い出多き古都を発着する初めての高速バスであるから、乗らない訳にはいかない。
平成18年12月の週末、帰宅途中の通勤客に紛れて戸塚駅東口に降り立った僕の目の前に姿を現したのは、緑とクリーム色に塗り分けられた江ノ電バスだった。
車内に整然と並べられた横3列シートも緑色で統一されて、古都を走るバスに相応しい落ち着いた雰囲気である。
21時ちょうどに発車する戸塚駅から乗車したのは僕だけだったが、闇に包まれた住宅街を走り抜けて、大船駅東口、鎌倉駅東口、藤沢駅南口と進むにつれて乗客が増え、殆どの座席が埋め尽くされた。
乗車停留所の順番で推察すると、バスは、県道21号線で巨福呂坂切通を抜けて鶴岡八幡宮に向かい、若宮大路の段葛の脇を通り、21時50分発の鎌倉駅に寄ってから、国道134号線で湘南海岸の波打ち際を西へ向かったのだと思うのだが、この時間ではさすがに渋滞に巻き込まれることもなかった。
閉め切られたカーテンの隙間に覗く限られた視界は、深い闇に塗り潰されて、建物の灯が見えなくなったから今は海岸を走っているのか、などと推測する以外に、何も伺うことは出来ない。
車中ではよく眠ったらしく、東名・名神高速道路は夢の中に過ぎ、早朝5時24分に着く京都駅八条口でも、うっすらと瞼を開けた程度だった。
平安時代の末期から鎌倉時代にかけて、源義経をはじめとする大勢の歴史上の人物が鎌倉と京都の間を行き来したことであろうが、当時はどれほどの日時を費やしたのだろう。
午前6時54分着の湊町バスターミナルで殆どの乗客が下車し、南海バスの拠点であるなんば高速バスターミナルを過ぎると、車内は抜け殻のように閑散となった。
どうやら、堺まで乗り通すのは僕だけのようであった。
路線バスであるから、客がいようがいまいが終点まで運行するのが決まりであるけれど、僕がいなければ、運転手さんたちはもっと気楽に過ごせるのではないか、戸塚から堺までの起終点を乗り通すことでマニアと見破られてしまうのではないか、などと、このような状況では色々と気を揉んでしまうのだが、難波から堺までの道筋の記憶がすっぽりと抜けているから、二度寝をして過ごしたのだろう。
南海堺駅と堺東駅を経て、終点のJR堺市駅前に到着したのは、定刻7時50分よりも少し早い時間だった。
一夜を共にした江ノ電バスが駅前ロータリーから姿を消すと、入れ替わりに、2階建てバスで仕立てられた東京からの「ドリームなんば・堺」号が姿を現した。
「ドリームなんば」号と「ドリーム堺」号の2つの夜行高速バスが平成16年に統合された路線で、難波で大多数の客を降ろしてしまったのであろうか、堺市駅前でバスから降りてきた客は僅かに数人だった。
この路線も、更に10年後の平成28年に「ドリーム和歌山」号に吸収され、堺への乗り入れをやめてしまったので、貴重なシーンを目撃したことになる。
「ドリーム和歌山」号には未だに南海バスが運行会社として踏みとどまっているのだが、同社には大阪と共に堺を出入りする路線も少なくないだけに、あっさりと堺での乗降を諦めてしまったものだと思う。
堺と言えば、思い出すのは、城山三郎原作のNHK大河ドラマ「黄金の日日」である。
僕が中学1年生だった昭和53年に放映され、1話も欠かさず観るほどにハマった大河ドラマだった。
「この町は、ベネチアの如く執政官により治められる。
堺と称するこの町は、甚だ大きく且つ富み、守り堅固にして、諸国に戦乱あるも、この地に来れば相敵する者も友人の如く談話往来し、この地に於いて戦うを得ず。
この故に堺は、未だ破壊せらるることなく、黄金の中に日日を過ごせり」
という冒頭のナレーションは、今でも暗ずることができる。
主役の呂宋助左衛門を6代目市川染五郎(現・二代目松本白鸚)、千利休を鶴田浩二、今井宗久を丹波哲郎、今井宗薫を林隆三、天王寺屋宗及を津川雅彦、小西隆佐を宇野重吉、能登屋平及を志村喬といった堺の商人たちに加えて、織田信長を高橋幸治、豊臣秀吉を緒形拳、徳川家康を児玉清、明智光秀を内藤武敏、石田三成を近藤正臣、小西行長を小野寺昭、高山右近を鹿賀丈史、安国寺恵瓊を神山繁といった戦国武将の配役は、歴代の大河ドラマの中で最もはまり役であったし、石川五右衛門の根津甚八、杉谷善住坊の川谷拓三、そして細川ガラシャの島田陽子、ねねの十朱幸代、淀君の藤村志保や、栗原小巻、夏目雅子、竹下景子、名取裕子、李礼仙といった脇を固める男優・女優陣も豪華であった。
最終話には当時の市川染五郎の長男・藤間照薫(現・10代目松本幸四郎)が出演し、中盤で、父
の8代目松本幸四郎(初代松本白鸚)が出演したことと合わせて、高麗屋親子3代の顔見世となった場面では、一緒に観ていた父と母が、おお、と声を上げたものだった。
堺には、「ドリーム堺」号上り便に乗るために訪れたことがあったけれども、その時はバスの始発から乗るために大阪から電車でやって来ただけの、慌ただしい夜の訪問に過ぎなかった。
大河ドラマが始まる日曜日の午後8時が待ち遠しかった頃を、懐かしく思い出しながら、朝の陽を浴びる堺市駅前を改めて見回せば、土曜日の早朝とは言え、街並みはしん、と静まり返って、戦国時代に独立国家の如く黄金の日々の栄華を誇った商都の面影は、微塵も感じられないのだが、誇り高き堺商人の矜持としては、起終点になるならばともかく、和歌山への行き来にちょっと立ち寄るような高速バス路線は出入り禁止と考えているのかも知れない。
僕はJR阪和線の電車で天王寺駅に折り返し、向かいに建つ近鉄デパートの麓の歩道に設けられたあべの橋バスターミナルから、9時07分発の小浜行き「わかさライナー」号に乗り込んだ。
見慣れない新しい塗装を身に纏った近鉄バスのハイデッカー車両に、あべの橋から乗車した客は数人に過ぎず、起点にしては発車時刻も中途半端なのだが、次に停車する個性的な外観の湊町バスターミナルで20名ほどの客が乗り込んできて、発車も9時20分と切りの良い数字である。
当時は8往復が運転されていた「わかさライナー」号のうち、下りでは朝、上りでは夜の2便ずつがあべの橋まで足を伸ばし、残りは湊町を起終点としていたのである。
阪神高速1号環状線から11号池田線に至る高架道路で幕を開ける、大阪ミナミからのバス旅は、八百八橋と呼ばれる川筋の多い大阪の市街地を存分に眺めることが出来るから、気分まで晴れやかになる。
小浜と言えば釣り客でも乗って来るのかと予想していたが、思い思いの席を占める乗客の容姿からは、旅の目的を推し量ることは難しい。
僕は、小浜の町には何の用事もないけれど、奈良の東大寺で催されるお水取りの水が市内の遠敷川から採取されるなど、古くから大和王朝との結びつきが強いことや、海産物を奈良や京都まで送る鯖街道の起点として、伊勢志摩や淡路島と並ぶ御食国の1つに数えられていること、市内には国宝や重要文化財が数多く存在することから「海のある奈良」「若狭の小京都」などと呼ばれているという程度の知識は持っていたから、観光客が多いのだろうな、と思う。
何かの文献で、小浜-京都-奈良-新宮が南北の一直線上に並ぶことが著され、地図を確認した時には、なるほど、と手を打ちたくなるようなロマンを感じたものだったが、それがどのような意味を持つのかは分からない。
京都-奈良-新宮はともかく、小浜と京都の間には、兵庫県東部から京都府、大阪府北部、滋賀県西部、そして福井県南西部に跨がる丹波山地の峰々が連なっているため、直線的に両地を結ぶ鉄道や道路は見当たらず、「わかさライナー」号も、中国自動車道を三田の先まで西へ進み、吉川JCTから舞鶴若狭自動車道に乗ることになる。
中国道から舞鶴若狭道にかけては、大阪市内と一変して、山がちな車窓となった。
標高600mから900m程度の、高からず低からず似たような容姿の山々が折り重なっているだけであるが、山肌を覆う木々の緑は、真冬の季節でも、朝日に映えて色鮮やかである。
10年近く前に品川発の夜行高速バス「シルフィード」号で舞鶴へ向かった時も、この道を通ったはずであるが、夜明け前の暗闇一色であったから、「わかさライナー」号で昼間に見る景色はどれも新鮮だった。
兵庫県篠山市にある西紀SAで、10分ほどの休憩となった。
大阪から北東方向にある小浜に向かっているのに、兵庫県を経由するとは随分と大回りをしているように思えるが、サービスエリアの建物には「丹波篠山」と大書されて、このあたりの地理に疎い東日本の人間としては、幾分の混乱を来してしまう。
平らで広い土地を意味する「田庭」が名前の由来とされる丹波国は、古来、丹後と但馬を含む現在の京都府中部と北部、兵庫県の北部と中部、そして大阪府の一部にも及ぶ広大な領域を指していたという。
点在する盆地が山々で隔てられているため、1つの国としてのまとまりに欠け、口丹波と呼ばれた亀岡・八木・園部を含む南丹地方は山城・摂津と、福知山・綾部を含む中丹地方は丹後・但馬と、篠山地方は摂津・播磨と、氷上地方は但馬・播磨と係わる別々の歴史を刻んできたという。
7世紀には北西部が但馬、北部が丹後として分離し、江戸時代に丹波亀山藩、園部藩、綾部藩、山家藩、篠山藩、丹波柏原藩、福知山藩の7藩が置かれた。
明治の廃藩置県によって、現在の亀岡市を中心とした桑田郡、京丹波町を中心とした船井郡、綾部市・福知山市の一部に当たる何鹿郡は京都府に、福知山市の大部分を占める天田郡、丹波市を中心とする氷上郡、篠山市にあたる多紀郡は豊岡県に分けられたが、後に豊岡県は廃止されて、天田郡が京都府に、氷上郡と多紀郡が兵庫県に編入され、昭和33年には、京都府に含まれていた樫田村と西別院村の一部が大阪府内に越境合併している。
様々な事情があったにせよ、これだけ国や県境が動かされた地域は他に例を見ないのではないだろうか。
僕は、丹波と言えば京都だけを想起してしまうのだが、由良川流域の舞鶴・福知山・綾部から成る中丹地方と、桂川流域の亀岡・南丹・京丹波から成る南丹地方を、狭義の丹波地方(京丹波)と呼んだことによる思い込みである。
篠山と言えば、僕らより上の世代にとっては、何と言ってもデカンショ節が思い浮かぶ。
デカンショデカンショで半年暮らす アヨイヨイ
あとの半年ねて暮らす ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ
丹波篠山山家の猿が アヨイヨイ
花のお江戸で芝居する ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ
酒は飲め飲め茶釜でわかせ アヨイヨイ
お神酒あがらぬ神はなし ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ
灘のお酒はどなたが造る アヨイヨイ
おらが自慢の丹波杜氏 ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ
雪がちらちら丹波の宿に アヨイヨイ
猪がとびこむ牡丹鍋 ヨーオイ ヨ
ーオイ デッカンショ
丹波篠山鳳鳴の塾で アヨイヨイ
文武きたえし美少年 ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ
東京に遊学していた篠山出身の学生が、千葉の海の宿泊先で郷土の盆踊りの歌を歌っているところを、同宿していた旧制一高の水泳部員が聞き止めて、東京で歌い広めたことが、全国で愛唱される学生歌となったきっかけと言われている。
僕も、昭和50年代の高校時代に、学園祭のファイヤーストームなどで、級友たちと蛮声を張り上げてデカンショ節を歌った記憶がある。
合いの手である「デカンショ」の起源は、「デカルト」「カント」「ショーペンハウエル」の略とする如何にも学生歌らしい説や、「デコンショ」という盆踊り歌、「ドッコイショ」や「出稼ぎしよう」が転訛したという説、もしくは、丹波味間村の農婦が「てこんしょてこんしょで半年ァ暮らす、あとの半年ァ泣いて暮らす」と歌った糸紡ぎ歌を由来とするなどの諸説が唱えられている。
悲哀に溢れる糸紡ぎ歌の歌詞や、秋から冬にかけて篠山盆地に特有の濃い霧が発生し、雲海に似た光景が眺められるという「丹波霧」のことを耳にすれば、縮緬で名高い丹後の「うらにし」にも通じる情緒が感じられて、華やかな畿内の裏側に足を踏み入れつつあると言う実感が湧いてくる。
丹波山中に穿たれた長さ2015mの黒谷真倉トンネルをくぐって、兵庫県から京都府に足を踏み入れた「わかさライナー」号の車窓には、山々の切れ間から日本海が顔を出すようになる。
舞鶴湾を西側に抱く大浦半島の基部にそびえる三国岳を、長さ1100mの三国岳トンネルで越えれば、京都府と福井県の境を超えて、北陸地方の最西端に位置する高浜町に入っていく。
三国岳は、丹波・丹後・若狭の境にある。
大して長い距離を走る路線ではないと思っていたけれど、「わかさライナー」号は、摂津から播磨、但馬、丹後、そして若狭へと5つの国を渡ってきたことになる。
大飯高浜ICで舞鶴若狭道を降りると、バスは、日本海に沿う国道27号線をひた走り、若狭和田駅前、シーサイド高浜、若狭本郷駅前に停車してから小浜駅前に向かう。
くびれた根元で本土と繋がっている音海半島と、久須夜ヶ岳を抱く内外海半島に抱かれた小浜湾では、冬の日本海とは思えないほど波1つない平穏な海原が広がっている。
このあたりには良質の海水浴場が多く、夏になれば京阪神地域から多くの海水浴客が訪れると言われているのだが、ここから東の湾岸地域は、美浜、大飯、高浜、敦賀といった合計13基の原子力発電所が連なる原発銀座でもある。
平成23年に起きた福島第一原子力発電所の事故以来停止していた福井県内の原発も、徐々に再稼働しつつあるものの、敦賀発電所1、2号機の敷地内には多くの破砕帯が存在し、原子力規制委員会が非常に活動的な断層であると結論づけたため、敦賀発電所の2基は廃炉になる可能性が高く、計画中の3号機、4号機も実現の目途が立っていない。
山並みが海岸線に迫る険しい地形のために登り下りが激しい国道27号線からは、半島の裏側に建つ原発群を望むことは出来ない。
補助金が豊富であることを物語る壮麗な建物や橋梁、道路などとは対照的に、ひっそりと浦々の奥に佇む町を眺めながら、この地域の人々は、福島の原発事故をどのような思いで注視していたのだろうと思う。
定刻12時32分に到着した小浜駅からは、町を見物をする暇もなく、小浜線の電車に乗り換えて敦賀に向かった。
かつては舞鶴線と共に山陰と北陸を結ぶ短絡路として急行列車が行き交っていたJR小浜線も、今では普通列車しか運行されていないローカル線となっているが、全線が電化されており、その工費の約半分を、関西電力・北陸電力・日本原電が負担したと聞いたことがある。
北陸新幹線が2022年に敦賀まで延伸されることとなり、また、その先の京都までのルートが、北陸本線や湖西線と並行するのではなく、小浜経由で決着することになりそうな情勢も、原発と関係があるのだろうか。
とっくに刈り入れを終えた土色の田園地帯をひた走り、敦賀からは北陸本線の下り特急列車に乗り継いで、金沢駅に降り立ったのは、午後3時半を回った頃合いであった。
短い冬の陽は、早くも西に傾きかけていた。
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もはや人道主義では明智を説明しきれない
私、スコッツディールが主催するアメブロゴルファーの遠隔トーナメント
THE TOUR 2018
今月を含めラスト3戦、年間ポイントランキングも熾烈な争いとなっております。
先月までの結果はコチラ↓
さて、今月から新たに2人のツアーメンバーがスコアを提出してくださいました。
さんとさん。
これで総勢17名となりより刺激的な戦いとなっております
cr=コースレート
sr=スロープレート
gs=グロススコア
ch=コースハンディキャップ
毎月ハイレベルな戦いをされているツアーメンバーの皆様。
どれくらいハイレベルなのか?…ということでこの前久々にラウンドした私のスコアを比較対象として番外編として発表すると…
ランク外
スコッツディール 74.4ストローク
双鈴ゴルフクラブ(cr69.6sr124gs80ch8)
こんな感じです(笑)
これが今月の8位に相当するスコアとなっております。
参加されている皆さん、毎月本当に素晴らしいですしご苦労様ですし何より有り難いと思っております
さて、今月の順位は…文字制限の都合で今回も寸評は見送らせて頂きます。スミマセンm(_ _)m
第17位
akkeyさん 82.9ストローク
クラシック島根カントリークラブ(cr69.1sr128gs99ch19)
第16位
あんさん 81.5ストローク
明智ゴルフ倶楽部かしおゴルフ場(cr71.5sr124gs101ch20)
第15位
まみかさん 77.5ストローク
ホームコース(cr71.5sr124gs100ch23)
第14位
さくぞーさん 76.9ストローク
ジャパンクラシックカントリー倶楽部KINGコース(cr69.1sr120gs101ch27)
第13位
mizu-toshiさん 76.5ストローク
明智ゴルフ倶楽部かしおゴルフ場(cr70.5sr126gs86ch10)
第12位
ふうたんさん 76.3ストローク
総武カントリークラブ総武コース(cr72.7sr125gs89ch12)
第11位
コタローさん 75.8ストローク
青山台ゴルフ倶楽部(cr71.2sr123gs93ch18)
第9位タイ
銀のさくらん・ぼさん 74.8ストローク
日清都カントリークラブ(cr69.2sr132gs89ch17)
くうニャさん 74.8ストローク
スターツ笠間ゴルフ倶楽部(cr71.2sr121gs87ch13)
第8位
ueueさん 74.6ストローク
紫カントリークラブ紫あやめ36(cr69.4sr123gs99ch27)
第7位
むぅこさん 70.9ストローク
マナゴルフクラブ(cr70.1sr121gs86ch17)
第6位
TEAM405さん 70.4ストローク
双鈴ゴルフクラブ(cr69.6sr124gs83ch15)
第5位
まっちゃんさん 69.2ストローク
セントラルゴルフクラブ東コース(cr73.8sr134gs81ch11)
第4位
ペケさん 68.8ストローク
玉造ゴルフ倶楽部若海コース(cr70.2sr125gs81ch14)
そして今月のトップ3です
第3位
Gaspardさん 67.5ストローク
チェリーヒルズゴルフクラブ(cr71.5sr134gs79ch12)
第2位
宮ちゃんさん 66.7ストローク
小松パブリック(cr69.3sr133gs79ch15)
ペケさんjr 65.0ストローク
玉造ゴルフ倶楽部若海コース(cr68.0sr119gs77ch16)
そして年間ポイントランクは…
【ポイントランキング】
1位 ペケさんjr 1585
2位 ペケさん 1205
3位 さくぞー 1190
4位 TEAM405 1080
5位 まみか 1074
6位 Gaspard 875
7位 コタロー 725
8位 まっちゃん 497
9位 mizu-toshi 495
10位 銀のさくらんぼ 477.5
11位 くうニャ 452.5
12位 あんさん 369
13位 ふうたん 330
14位 宮ちゃん 300
15位 akkey 296
16位 むぅこ 210
17位 ueue 80
今回はネットアンダーが7人、その中でペケさんjrが先月に引き続き連覇。
これにより年間ポイントでもトップに立ちました。
そして今回は9位に全くの同ストロークで2人おられましたので規定により月間順位はタイでポイントは下の順位のものと合算して割り付加させて頂きました。
残りはあと2戦、実質的な逆転の可能性があるのは5位のまみかさん辺りまででしょうか。
中段グループのメンバーさんから優勝とか出て頂くと大変面白くなったりするんだと…感じます(笑)
今回初めて複数回優勝者が出ましたが(まぁ翔君はちょっと別格ですが)、改めてそれだけ自分のベストなゴルフを続けるのが簡単では無い事なんだと思いました。
参加されているツアーメンバーの皆さんには敬意を表します。
ラスト2戦もベストなゴルフを!
明智がまじ萌えることに今更気付いた
私、読書が大好きで、今も毎月10冊以上は読みます。
特に好きなのが、推理小説!
シャーロックホームズから始まった私の推理小説好きの系譜は、将来の仕事を決めたと言っても過言ではありません。
そして、国語の受験勉強は一切したことがない私が、司法試験合格レベルの読解力、論理力を身につけられたのは推理小説によるところが大きいと思われます。
というわけで、長女を推理小説好きに引き込みたい私
入学以降の自力読書への橋渡しとして、この一年の読み聞かせは児童書も取り入れています。
今回旅のお供に選んだのは、こちら💁♀️
論理力が磨かれるような謎解きがいっぱい。
思惑通り、長女どハマりで旦那に何度も読み聞かせてもらっていました。
何度も読むと答えはわかりますが、理由を論理的に説明してもらってます。
入学後は、
最後は私の蔵書のこちらを譲ろうかな
*・゜゚・*:.。..。.:*・’*:.。. .。.:*・゜゚・*
ところで、せっかくのGWなのに昨日から腰を痛めてしまいました
昨日今日と旦那が娘たちを連れて行ってくれていますが、明日はキャンプの予約をしています
結構遠いキャンプ場だけど、行けるんだろうか…