デニスに対する評価が甘すぎる件について
フランスのフィギュアスケート専門誌「PATINAGE」、
最新号の表紙を飾るのは今シーズン現役復帰する髙橋大輔選手。
こんなにも純粋な笑顔でスケートをしている大輔選手を
ソチ五輪の4年後に見られる幸せを改めてしみじみ実感しています。
昨日手元に届いた「PATINAGE MAGAZINE」、どの表紙を開くと
目次のページにも小さな大輔さんの顔写真と記事紹介の文字が。
「14 DAISUKE TAKAHASHI REPORTAGE EXCLUSIF」
本誌14ページから始まる「髙橋大輔選手 独占レポート」の記事を伝える目次、
そのすぐ下には「WAKABA HIGUCHI」樋口新葉選手の名前があって
「BENOÎT RICHAUD INTERVEW」ブノワ・リショーさんインタビューは28ページから。
その他、ステファン・ランビエル氏に指示するデニス・ヴァシリエフス選手や、
ミハイル・コリヤダ選手、パトリック・チャンの最新インタビューとか、
デニス・テン選手の追悼記事も。どのページも光沢のある紙面の上に
美しいカラー写真やモノクロ加工の写真が並んでいる素敵なフィギュア誌。
フランス語が分からなくても写真を眺めているだけで
フィギュアスケートの魅力が伝わるような印象を受けます。
大輔さんとリショーさんの記事だけはフランス語と英語の同時表記、
それ以外のページはすべてフランス語のみ。
日本からもたくさん注文が入ったと思われる今回の「PATINAGE」に
英語訳を付けてくださったことに感謝!
懇切丁寧な対応をしてくださっているマガジンマートさんにも感謝!
一時は“完売“と書かれてあった大輔さん表紙の「PATINAGE」ですが
現時点では在庫が復活している模様。ご希望の方はどうぞお早めに。
雑誌が折れ曲がったりしなように台紙がついた状態で、
綺麗に梱包されて送られてきた「PATINAGE」。
英文訳をざっと流し読みしてみただけの大まかな感想を少し…
14ページからの大輔さん特集記事、そのページを開いたとたんに
目に飛び込んでくるモノクロ写真の独特なポーズにまず心を鷲掴みされました。
リショーさん振付のFS「Pale Green Ghosts」の中にも
このポーズを取り入れた振付があるのかも??と想像力がかきたてられます。
「DAISUKE TAKAHASHI Return of the Master」
大きな文字での記事タイトルはフィギュアスケートの名手の帰還を
大々的に伝えてくれていて、続くイントロデュース的な記事文には
「demi-god」というワードが。意味を調べてみると(Weblio辞書)
「《神と人との間に生まれた者》.2神格化された英雄,崇拝される人物」
とあって、世界的にも崇高で特別な存在感を放つスケーターであることを
尊敬の念を込めて最初に記してくださっていることを嬉しく感じました。
大輔さんが競技の世界に戻ってくるというビッグニュースを
「PATINAGE」取材側が初めてキャッチしたのは今年6月下旬、
フランス・クールシュヴェルでのブノワリショーさんとの振付作業でのこと。
すでにそのとき、復帰を決めた理由をフランスで語っていた大輔さん。
競技の演技の中で再び挑戦する4回転ジャンプの話題では2010年世界選手権で
両足着氷ながらも史上初の4回転フリップに挑んだことにも触れていて、
その6年後に同じ技を成功させた宇野昌磨選手の名前も出ています。
(昌磨くんの名前はそのあとのインタビューでも度々登場、
大輔さん特集記事の前のKISS & CRY 写真特集の中にも昌磨くん発見。
樋口美穂子先生から慰められているようなキスクラ写真がありました。)
2008年に右膝の大怪我をする前には2度の4回転をプログラム内で跳んでいた、
それらを取り戻すために今、一生懸命に練習している―
そんなふうにPATINAGEの取材に対して話していた大輔さん。
彼はきっとそれをやってのけるだろう、との記事文面もありました。
ただ、この4回転への前向きなコメントは6月末時点でのことなので、
8月に肉離れの怪我を負ったことで少しの軌道修正があるかもしれませんね。
「I’m happy to skate 」
これまで支えてくれた人たちへの思いも語りながら、
スケートをすることへの喜びが率直に語られていた部分もありました。
真の傑作を世に送り出してきたスケーター、髙橋大輔選手。
記事では音楽表現についての言及も。
2010年のタンゴプログラムやFS「道」にも触れ、
日本人で初めて伝統的な文化の枠にとらわれない音楽解釈をしていた、と評価。
「道」は映画そのものを解釈しようとするのではなくて、音楽を重視するやり方。
「僕の使命は音楽が持つメッセージを伝えること」
表現の秘訣を語る大輔さんのこの言葉で特集の序章、プロローグが締められています。
次のページからは取材側からの様々な質問に大輔さんが答える形式。
練習中の写真がその周囲にあって、どれも本当に良い表情。
リショーさんと一緒の写真も含む6枚、さらに8枚、
見開き2ページに大きな写真があって、さらに続くQ&Aにも5枚の写真。
それらの雰囲気はPATINAGE Inatagramを見てもらえると分かりやすいかも。
その中の1枚、同じ写真があったのでお借りします。
読み応えある大輔さんの独占レポート記事のご紹介、今回はここまで。
続きはまた英文を少しずつ読み解いてから書いていけたらと思います。
まだこれから「PATINAGE」がお手元に届く方も記事内容はもちろんですが
美しい練習着姿の大輔さんの写真もぜひお楽しみに!
自己流の意訳と拙い感想、読んでいただきありがとうございました!!
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俺達のプロレスラーDX
第179回 二人のマニアが成し遂げた下剋上~苦節と最高のジプシーウェイ~/邪道&外道
シリーズ タッグ屋④
日本には「プロレスの日」という記念日がある。
1955年2月19日、日本初の国際試合「力道山・木村政彦組対シャープ兄弟」の試合が開催された。これに由来して、2月19日は「プロレスの日」になっている。
日本のプロレス史はタッグマッチから本格的にスタートしたのである。
これまで日本のプロレス界には数々の名タッグチームが誕生し、伝説を残していった。
その中で実にデビュー以降、四半世紀以上の長きにわたりコンビを継続している名タッグチームといえば、邪道&外道(通称・邪外)の二人である。
近年、デビュー時からタッグを組んでいるといえば天山広吉と小島聡の「天コジ」が思い浮かぶが、この二人は組んでいる期間もあれば、団体を離れた時期もあったり、抗争を繰り広げたりした上で今もタッグを組んでいるというこちらもレアケースのタッグチームなのだが、邪道&外道はデビュー時から常に行動を共にしてきた自他共に認める”兄弟”であり、別名”ワールド・クラス・タッグ・チーム”と呼ばれる男達である。
”レスリングマスター”邪道(178cm 99kg)はかつてヘビー級として活躍し、新日本ではIWGPジュニアヘビー級王者にも輝いたテクニシャン。
“コンプリートファイター”外道(172cm 86kg)は日本プロレス界を代表する試合巧者であり、業界屈指の職人レスラー。また”レインメーカー”オカダ・カズチカのマネージャーであり、新日本プロレスの現場監督(ブッカー)も務めている。
今回は、日本プロレス界の名タッグ屋である邪道&外道のレスラー人生を追う。
邪道は1968年9月28日東京都港区に生まれた。本名は秋吉昭二という。外道は1969年2月20日東京都武蔵村山市に生まれた。本名は高山圭司という。
二人とも少年時代からの大のプロレスファンだった。
外道がプロレスマニアだったころに影響を受けたのは1970年~1980年代のアメリカン・プロレスだった。テレビ東京で放映されたプロレス番組「世界のプロレス」は彼のバイブルだった。
「1970年代のアメリカ南部のプロレスが好きで、それを見て育ったね。あれは素晴らしい、テリー・ファンクやジェリー・ローラーが好きだった。彼らは激しいし、本物で、何よりファイティングスピリッツがあるね。今の選手は運動神経はいいんだけど、そこで魅せる事ができないんだよ。テリー・ファンクにはそのスピリットがあった。だから俺のヒーローだよ、あと”ビューティフル” ボビー・イートン。彼は素晴らしいレスラーだよ、あの美しいバンプの仕方も好きだったね。他はリック・フレアーやハーリー・レイス」
【スポーツ・イラストレーテッド/外道インタビュー】
将来の進路はプロレスラーになると決めていた。邪道は新日本プロレス、外道は全日本プロレスに入ることを夢見ていた。
だがスポーツ歴のなかった二人が新日本や全日本というメジャー団体を通ることはなく、書類選考の段階で落選する。
当時の日本プロレス界は団体が少なかった。FMWや大日本のようなインディー団体はない。メジャー団体の新日本と全日本がダメなら、海外でデビューするしか道はなかった。
そんな時にTPG(たけしプロレス軍団)という団体が誕生する。
たけしプロレス軍団(たけしプロレスぐんだん)は、ラジオ番組の企画から生まれたプロレス団体あるいは、その企画。略称はTPG。1987年、ラジオ番組『ビートたけしのオールナイトニッポン』の企画から生まれたプロレス団体で、ビートたけしが首領にあたり、たけし軍団も参加している。ビートたけしが当時懇意になりつつあった東京スポーツの紙上(1987年9月8日付け)で「プロレス団体設立」をぶち上げたのが発端。設立の動機を「オイラがプロレスファンという事もあるけど、最近のプロレスに感じられなくなった力道山時代の熱気を、ぜひ取り戻したいと思った」と語り、手駒の選手をスカウトしたり育てたうえで、「手始めにアントニオ猪木に挑戦したい。何といっても日本でナンバー1のプロレスラーだから」と、その目標を明らかにした。東京スポーツは以後「ビートたけしプロレス大挑戦」と題した密着ルポを始めるなどして、『たけしのオールナイトニッポン』と共にTPGの煽り役を担う。ただし他のプロレスマスコミのなかには「(たけしが本気かどうかが分からないので)人騒がせな話」となじる声もあった。またすでにこの段階から、以前『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』で、テリー伊藤が中心となって発案し全日本プロレスの協力のもとの、いつしか立ち消えとなった企画「プロレス予備校」の焼き直しではないか、との疑問が呈されていた。その後、『たけしのオールナイトニッポン』内で練習生を募集。都内に秘密道場を用意してトレーニングを積ませた。
(中略)
当初の構想としては、後年のアニマル浜口トレーニングジムや闘龍門のようなスタイルでの運営が予定されていた。
【たけしプロレス軍団/wikipedia】
このTPG練習生オーディションで邪道と外道は出会った。
二人はオーディションを合格し、西馬込にあった道場で、元国際プロレスのアポロ菅原のコーチの元でトレーニングを開始する。菅原からは受け身からプロレスのイロハを学んだ。外道は後にこう語る。
「練習生はかなり厳しいことをやらされると聞いていたので、練習に耐える練習をしていた。だからそれほど苦労は無かった」
ちなみにこの道場生には後にスペル・デルフィンとして大ブレイクする脇田洋人がいた。
だが、TPGは1987年の両国暴動事件によって、旗揚げすることなく、自然消滅してしまう。
行き場を失った邪道と外道は、ウォーリー山口氏が経営するプロレスショップ「マニアックス」のリングを借りて、練習は続けた。
山口氏は二人についてこう語っている。
「秋吉(邪道)はしょっぱかったねぇ。高山(外道)はボビー・イートンだったね。ミッドナイト・エクスプレス! “日本のボビー・イートン”だったよ、俺的には。バンプの取り方もナチュラルだし」
【プロレスなんでも屋 ウォーリー山口「ジャイアント馬場と竹内宏介、ふたつのG魂」/Dropkick】
山口市の尽力によって1989年3月19日オ
ンダ・アムステルダムでデビューを果たす。その後、1989年10月に大仁田厚が”5万円”で旗揚げしたFMWに参加することになる。ちなみのこの頃の二人のリングネームは邪道がベトナム出身の難民マスクマン「ボート・ピープル・ジョー」、外道がブラック・アイドマンを名乗っていた。邪道は何試合か行ったが、外道は一試合を行うことなかった。
1990年3月に邪道と外道はユニバーサル・プロレスの旗揚げに参加することになる。日本初のルチャ・リブレをベースとしたプロレス団体となったのがユニバーサル・プロレスだった。
邪道がクーリー・SZ(しょうじ)(後にクーリー”クラッシュ”SZに改名)、外道がブルドッグ・KT(後にブルドッグ”パニッシュ”KTに改名)を名乗り、「パニッシュ&クラッシュ(略称:パニクラ)」を結成する。日本最高のタッグ屋の歴史はユニバーサルから始まる。得意の合体技であるスーパーパワーボムはこのリングで生まれた。タッグの息は自然と合っていた。ちなみにこの頃の邪道は100kg,、外道に至っては108kgとヘビー級の肉体だった。
浅井嘉浩(ウルティモ・ドラゴン)、モンキーマジック・ワキタ(スペル・デルフィン)、MASAみちのく(ザ・グレート・サスケ)、厳鉄魁(ディック東郷)、TAKAみちのく、獅龍(カズ・ハヤシ)、テリー・ボーイ(MEN’Sテイオー)、モンゴリアン勇牙(新崎人生)…。
スター選手になっていく邪道と外道を含む男等は皆、ユニバーサル・プロレスで育った。
1991年4月にメキシコ遠征に旅立った二人はグラン浜田からルチャ・リブレを学んだ。帰国後、二人はメキシコの名タッグチームであるロス・カウボーイズ(エル・テハノ&シルバー・キング)を破り、UWA&UWF認定インターコンチネンタルタッグ王座を獲得する。これがプロレス人生初の戴冠だった。
だが1992年夏になると二人はコンビを一時解消。外道はパット・タナカとビシャノ3号と「バッドカンパニー」を結成し、ユニバーサルで悪のユニットとして活動していく。
パット・タナカとの出会いは外道のプロレススキルを向上させた。受け身の達人・タナカが魅せるオリジナルムーブである打撃を受けた際にキリモミ回転受け身は外道に引き継がれる。
一方の邪道はシングルプレーヤーとして活動し、UWFスーパーミドル級王座を獲得。この頃の邪道の得意技はハーフハッチ式DDT。プリンス・デヴィット(フィン・ベイラー)の十八番ブラディ・サンデーと類型である。スーパーミドル級王座を獲得した時、彼はこう語っている。
「このベルトはヘビー級並みに重いです」
そんな二人だったが、ユニバーサル・プロレスも安住の地ではなかった。1992年11月にフリーに転向し、メキシコに渡った。
メキシコに渡る時、二人は邪道&外道となった。
このリングネーム誕生秘話について外道はこのように語っている。
「フリーに転向する1992年にリングネームを変えることになって、自分たちで考えたんです。最初はとにかくいちばん悪い名前にしようということで相方(邪道)と名前を出しあって。俺は『仁義なき戦い』って映画がすごく好きなんですけど、映画のなかで極道の人たちが、最悪な道を外れた人たちのことを『クサレ外道』って言うんですね。これがいちばん悪い名前じゃないかなって思って。それで最初、外道って名前が決まったんですよ。タッグチームなんで、『じゃあ外道ともう1人なら邪道だな』ということになりました。でも邪道って、大仁田 厚さんのイメージがあるから、『やだよ、俺は外道な!』って言ったら、相方も『俺もやだよ!』と名前の取り合いになって(笑)。『外道は俺が考えたんだから、俺が外道だから!』って言い張ったら、相方も『じゃあしゃあない』と。そんなやりとりがあって、俺が外道をいただきました(笑)」
【ヒゲに対する思いも「レェェェヴェルが違う」! プロレスラー・外道が女性の冷たい目線と執拗なヒゲ攻撃に耐えるワケ/GetNavi web×新日本プロレス コラボ連載】
赤い道着のようなコスチューム姿となった邪道・外道はメキシコを経由して、1993年7月にW☆INGに参戦した。外敵として暴れ回った。火で燃え上がったリング上で対戦相手にパワーボムを見舞い、大やけどを負わせたこともあった。
スポーツジムで汗を流し、夜になるとプロレスのビデオを見て、勉強会を開催して、プロレス学を突き詰めていく。試合で実践経験を積んで、そのプロレス学をより確かなものにしていく。そんな生活を過ごすことでプロレスマニアの二人はプロレスラーとしてのアティチュードを磨いていった。
1994年2月にウルティモ・ドラゴンに誘われ、天龍源一郎率いるWARに参戦、同年4月には冬木弘道と結託し、「冬木軍」を結成する。メジャーやインディーの枠を越えて、あらゆる団体で大暴れ、日本プロレス界を代表するヒールユニットとして活躍することになる。
一方で外道はシングルプレーヤーとして注目されることになる。
1994年4月16日、両国国技館で開催された新日本プロレス主催・史上初ジュニアヘビー級オールスター戦「第一回スーパーJカップ」に、負傷欠場した折原昌夫の代打として出場した外道は、1回戦で”千の技を持つ男”ディーン・マレンコをパワースラムで破り、2回戦ではかつての盟友であるスペル・デルフィンをデルフィン・クラッチを切り返しての首固めで破り、なんと準決勝に進出する。ダークホースとなった外道の対戦相手は優勝候補のワイルド・ペガサス(クリス・ベノワ)。外道は燃えに燃えた。場外へのムーンサルト・アタック、WARスペシャル、ノーザンサウと・スープレックス・ホールド、パワースラムと大技を繰り出していき、ペガサスを追い込み、ペガサスの猛攻を受け止めた外道は敗れた。
しかし、試合後、新日本のリングにはなんと「外道」コールが爆発する。
メジャー団体でデビューする夢が破れ、業界の裏街道を渡り歩いた男の卓越したテクニックは新日本でも通用したのだ。そして、敗れた外道は少しだけ右手を上げて歓声に応えていた…。
WARでは阿修羅・原と冬木弘道という二人の”心の師匠”に出会ったことが大きかった。
2015年4月に逝去した阿修羅・原に邪道&外道は追悼のコメントを発表している。
邪道
「プロレス界で一番お世話になった人。レスラーの酒の飲み方を教えてもらった。引退試合で一番最後の対戦相手になれたのは俺の誇り。頑丈な人だったし、引退試合でも一切手加減なしでいった。そうしないとあの人も怒った」
外道
「プロレスラーの代表みたいな人だったよ。豪快で宵越しの
ネは持たない。毎日のようにメシに連れて行ってもらった。物への執着が全然なくて、いつもゴム草履にヨレヨレのTシャツでさ」
“理不尽大王”冬木弘道との出会いも邪道と外道にとってはプロレス哲学の礎となった。また、初代WAR世界6人タッグ王者として、日本の「6人タッグ王座」を根付かせたのは冬木軍である。
プロレスライターの小佐野景浩氏はこう語る。
「いまのプロレス界ではあたりまえになってるけど、プロレスをパッケージとして見せることも考えていた。冬木さんは『人間が集中できるのは2時間だよ』とも言っていて。そんな冬木さんの考えを邪道・外道が引き継いで新日本でやってるわけでしょ。いまのスピーディーな興行展開だったりを見ると、冬木イズムが生きてるんじゃないかなとボクは思いますけど」
【理不尽大王・後編 冬木弘道は「俺はやっぱり死ぬんだな」とニヤリと笑った…小佐野景浩のプロレス歴史発見/Dropkick】
外道は新日本での活躍もあって、シングルプレーヤーとしてWARで活躍。1995年3月にライオン・ハート(クリス・ジェリコ)を破り、初代WARインターコンチネンタル・ジュニアヘビー級王者となり、ウルティモ・ドラゴンと共にWARジュニア戦線の象徴として君臨、同年12月にはWAR主催「第2回スーパーJカップ」準優勝を果たす。1996年2月にはライオン道(ライオン・ハート/クリス・ジェリコ)とのコンビで初代WARインターコンチネンタル・ジュニアヘビー級タッグ王者となった。
一方の邪道はWARでは110kgにまでウェイトアップし、ヘビー級戦線で活躍。1995年には龍魂継承者決定リーグ戦に北原光騎をライガー・ボム(シットダウン・パワーボム)で破り優勝を果たす。また、帝王になる前のUWFインターナショナル・高山善廣との一騎打ちでラリアット(ウエスタン・ファミリアット)で破り、「スタン・ハンセンがブレーキの壊れたダンプカーなら、俺はブレーキの壊れたファミリアだ」と豪語したこともある。
ちなみに外道はWARでの思い出として語るのが「世界のプロレス」で活躍していたあのスーパースターとの一戦だった。
「俺が一番感動したのはWARで“ロックンロール・エキスプレス”とやったときだね。リック・モートンとロバート・ギブソン。80年代にものすごく人気のあったタッグチームで。昔、テレビ東京で「世界のプロレス」って番組をやってて、そのときに“ミッドナイト・エキスプレス”(ボビー・イートン&デニス・コンドリー)とロックンロール・エキスプレスが毎週のように戦ってたんだけど、その試合が好きでね。それでロックンロール・エキスプレスと戦ったときは、自分がミッドナイト・エキスプレスになったような気分で(笑)。あれは一番感動したな。あのころは両タッグチームとも好きでしょうがなかったからね。17〜18歳ぐらいのとき。それと自分が戦う……ミッドナイト・エキスプレスも好きだったんですよ。それになった気分で実際にロックンロール・エキスプレスと戦ったときは「うわ〜」って思いましたね」
【邪道&外道デビュー20周年記念インタビュー[前編] 波乱に満ちたレスラー生活を振り返る=新日本プロレス/スポーツナビ】
1996年11月、邪道と外道は冬木と共にWARを離脱し、冬木軍プロモーションを設立し、主戦場をFMWやIWAジャパン、大日本プロレスといったインディー団体に移行していく。1997年12月には大日本プロレスでBJWタッグ王者となった。
1998年1月、冬木軍はミスター雁之助、金村ゆきひろ(金村キンタロー)、非道と共に新軍団「チーム・ノーリスペクト(TNR)」を結成する。これがインディーの枠を越えて、大ブレイクする。また、TNR内に「ブリーフ・ブラザーズ」を結成し、白のガウンとブリーフ姿で試合前にコントを披露し、笑いにも挑戦し賛否両論を呼んだ。ちなみに「ブリーフ・ブラザーズ」でリーダーと呼ばれていたのは邪道。コントの主役となり、締めには必ずアントニオ猪木の物まねをするマイクを展開していく。外道はコーナーに上がり、プラカードを上げるのみで、後に「ブリーフ・ブラザーズが嫌で嫌で仕方がなかった」と語っている。
この頃、スタン・ハンセンが得意にしていたラリアットを必殺技としていた邪道は「不沈艦・スタン・邪道」と”スーパーフライ”ジミー・スヌーカばりのフロッグ・スプラッシュを得意にしていた外道は「スーパーフライ外道」とリングアナウンサーからコールされていた。
FMW時代から邪道と外道は肉体改造に着手している。
そのきっかけを外道はこう明かしている。
「アメリカでWCWってのに遠征させてもらって、エディ・ゲレロ、クリス・ベノワとか見て。ものスゴいんですよ、体が。キレまくってて。向こうは試合場でケータリングとかあるんですけど、エディ・ゲレロ見てたら、鶏肉しか食わないし、野菜と鶏とマグロしか食わないんですよ。あとタマゴとか。で、ベノワとディーン・マレンコと朝、食事してたら、やっぱりベノワも『鶏の胸肉をグリルしろ』とかオーダーするんですよ。Aセットとかじゃないんですよ。皮とってグリルしろとか、タマゴの白身だけ6つ焼けとか、そういうオーダーの仕方するんですよ。なんだコイツらと思って。で、コイツら、スゲーレスラーの原因はこういうのにもあるんだなと思って、僕がこういうの始めるのは、それがきっかけですね、完全。
(中略)
一番最初に、そのベノワを見て帰ってきたのがFMWで。最初はオイル抜き。脂分を一切抜くという。炭水化物は抜かなかったです。ただこれが変な痩せ方になっちゃってですね。みんなに糖尿病かと言われてね(笑)。体重も落ちちゃって、筋肉も落ちちゃったんですね(笑)。体重は80キロ切りましたね。 失敗したんだと思って、今度はカーボ(炭水化物)とオイルを食事で抜いたんですよ。あと有酸素運動は一切やらない。ウェイトトレーニングと食事だけ。それが新日本に入ってからです。
その頃ミッドブレスの山本(義徳)さんに出会って。食事のとり方、サプリメントの取り方。食材でアーモンドがいいとかも知らなかったので。いいオイル、悪いオイル、エクストラバージンオイルなら大丈夫とか。そこ知らなかったんですよね。そこを山本さんにいろいろ習って。でもやっぱり知ってなきゃダメだなと思って。やってみるとかじゃなくて、まずは知らないと効率悪いし、まず知ることだと思って。自分で調べたり、わかなかったら山本さんに聞いたり。知らないと損ですよね」
【外道 肉体改造は家族のおかげ/多重ロマンチック】
この肉体改
によって、邪道は100kgを切り、外道は90kgにシェイプアップし、肉体を研ぎ澄ますことで、コスチュームも道着コスチュームからショートタイツにモデルチェンジする。邪道はクリス・ベノワの得意技であるクリップラー・クロスフェースと同型技のクロスフェイス・オブ・JADOを得意技に変更している。
2001年2月に田中将斗と「コンプリート・プレイヤーズ」を結成すると、FMWを離脱し、あらゆる団体を転戦していくことになる。
「ジプシーウェイ」
この頃の週刊プロレスのインタビューで外道が自らのレスラー人生をこう形容したように、邪道と外道は苦節と流転の日々を過ごしてきた。
ジプシー(gypsy)は、一般にはヨーロッパで生活している移動型民族を指す民族名。転じて、様々な地域や団体を渡り歩く者を比喩する言葉ともなっている。
【ジプシー/wikipedia】
メジャーへの反骨心はこの二人にあった。
そして、自分達のプロレスに自信があったから、この境遇を耐えることができた。
邪道
「まぁ貴重な経験というか、ほかの人にはできなかった経験で。いい面もあるかもしれないですね、悪い面ばかりじゃない。レスラーとして成長させてくれたかもしれない、その経験は。今になって思えばですよ? その当時は『冗談じゃねぇよ』とか思ってたし」
外道
「悲惨なもんだったよ。だったけど、その分『どうにか抜け出そう』というね。『どうにか上行って金稼いでやろう』と、そればっかり考えてやってきてた。とにかく人一倍だったと思うよ、その辺の考え方は。『どうやったら金稼げるようになるかな?』とかね」
【邪道&外道デビュー20周年記念インタビュー[前編] 波乱に満ちたレスラー生活を振り返る=新日本プロレス/スポーツナビ】
そんなジプシー達は流れ着いたのがメジャー団体・新日本プロレスだった。
2001年5月に「ベスト・オブ・ザ・スーパージュニア」開幕戦に乱入し、新日本ジュニア戦線に宣戦布告。
「スーパージュニアによ、邪道・外道がやってきたぞ!!」
外道のあの毒々しいマイクが後楽園ホールに響き渡り、ブーイングに包まれた。
同年6月には交流があったという天山広吉を経由して,TEAM2000のメンバーとなった。同年7月20日札幌ドーム大会で獣神サンダー・ライガー&エル・サムライを破り、IWGPジュニアタッグ王座を戴冠する。あのTPG時代から14年後、遂に二人は新日本でチャンピオンとなった。さらに2001年プロレス大賞最優秀タッグチーム賞を受賞。遂にプロレスの表街道で邪道・外道というタッグ屋が高く評価される時代がやってきたのである。
邪道
「2人の技術を持っていれば、通用すると思っていたし。それは別に臆するところはなかったし。新日本に来たからといってね。実際に通用しているし」
外道
「新日本が『どんな所かな?』というのは最初に来るときあったけど、入ってみて『あ、行けるな』とすぐに思ったよね。やっぱり、いろんなヤツを相手にしてきたからね、それまでに。とんでもないヤツを相手にしてきたから。それは必然的に技術はつくわね」
【邪道&外道デビュー20周年記念インタビュー[前編] 波乱に満ちたレスラー生活を振り返る=新日本プロレス/スポーツナビ】
外道は2002年から新日本プロレスのジュニア部門のセカンドブッカーに就任している。当時マッチメーカーを務めた上井文彦氏の強い推薦だったという。
一方の邪道は2003年10月に時間差バトルロイヤルを制し、IWGPジュニアヘビー級王者に君臨している。
邪道&外道は2000年代の新日本ジュニアタッグ戦線の中心だった。IWGPジュニアタッグ王座は実に4度も戴冠した。そして、数々の好勝負を残していった。カレーマン(クリストファー・ダニエルズ)&アメリカン・ドラゴン(ダニエル・ブライアン)、金本浩二&井上亘、ディック東郷&TAKAみちのく、獣神サンダー・ライガー&タイガーマスク、稔(田中稔)&プリンス・デヴィット(フィン・ベイラー)…。ライバルチームは変わっても、二人は憎々しくも老獪にたちはだかった。そして、二人のチームワークはさらに洗練されていくのである。
――お互い次にどう動くとか全部分かるんですか?
邪道 だいたい分かりますよ。
外道 すごいよ、本当に。
邪道 細かいんだよ、俺ら。
外道 だいたい見てなくても、リングのコーナーに立ってなくても、「あ、あそこにいるな」とか分かってるからね、お互いに。だから相手をコントロールしたりするから、そっちの方に。(相手を)後ろ向きにするようにとか。
――そこまで考えているとは驚きです
外道 そんなの見ててもたぶん分からないと思うけど、そういうのもあるわけよ。
邪道 すごい細かい心理作戦がリング上ではあるんだから。
外道 それはやっぱり他のパートナーじゃできないね。
邪道 0.00001秒ぐらいでパッと切り替えたり。
外道 とにかく頭の中グルグル回ってるから、リングの上では。
邪道 相手の足の動きとかね。
――あまりの奥深さに感動しました
外道 どうにか相手をはめてやろうと思って、それしか考えてないから。
邪道 一瞬の判断で、「こっちによけたら、相手がこう来るから、じゃあ兄弟はこうなるから、こうなるだろう」というのを全部パパパッて考えながら。
外道 ギリギリでやってるけどね。でもそれが一瞬のうちにパパッて。こっち(邪道)も動いてくれるし。
――本当にコンマ何秒の世界ですね
邪道 でも分からないところだよね。分からないでしょ? やっぱりお客さんは。
外道 そりゃ分からないよ。俺らコンビネーションの技は、そんなにないんですよ。ダブルタックルとエルボー、スーパーパワーボムとか。それぐらいしかやんないんですよ。だけどね、そういう見えないコンビネーションが山ほどあるわけですよ。反則がらみとかね。レフェリーに見せないとか。
(中略)
――看板に偽りなしですね、今の話を聞いて。やはり“世界一のタッグ”は自負していますか?
外道 他のヤツらには絶対にできないもん。絶対にマネできないと思ってるからね、そのへんは。実際できないと思う。
邪道 やっぱり僕らと対戦した選手は、試合が終わって控え室に戻ったら「やっぱ邪道&外道すげーな」と思ってるはずだよ。いくら勝っても負けても。俺たちに勝ったって「ちょっ
と敵わねーんじゃねーかな」って思ってると思うよ。
外道 勝ったとしても「あ、ラッキーだったな」って思ってるよ。完全に俺らのペースだからね、全部。
【邪道&外道デビュー20周年記念インタビュー[後編] 驚異的タッグワークの全貌、8.30後楽園見どころ=新日本プロレス/スポーツナビ】
「C.T.U」、「G・B・H」、「CHAOS」と長年、新日本隊とは反目に回る立ち位置にいた邪道と外道が新日本の黒幕ともいえる現場責任者となって采配を振うことになったのは、一説によると2005年のユークス体制移行だと言われている。一時期は、新日本が外道が仕切り、事実上業務提携をしていた時期のプロレスリング・ノアを邪道が仕切っていたという。いわば、底辺から始まったジプシーがいつの間にか日本最高峰の舞台を動かす黒幕になっていた。
2012年から外道は”レインメーカー”オカダ・カズチカの専属マネージャーに就任。
「カネの雨が降るぞ!!」
「レベル(レヴェル)が違うんだよ(ちげぇえんだよ)!!」
これらのマイクパフォーマンスは新日本の定番となった。
現在躍進中の新日本プロレスを支えるのは棚橋弘至やオカダ・カズチカといったスター選手だ。しかし、彼等を影から支えているのはプロレスのすべてを知り尽くした男達なのである。
「これぞ究極の成り上がり人生」
週刊ゴングは2007年2月にWWEのトライアウトを受けた邪道&外道のレポートの見出しにはこんな文字が躍った。
まさしく、二人のレスラー人生は成り上がりそのものである。
一部で地下プロレスと称されていたTPGやプロレスショップのリングで練習を積み、プロレスラーとなった二人のプロレスマニア。何度も転職しようと思ったか…。泥水をすすり、回り道を繰り返した。ルチャ・リブレ、デスマッチ、武骨な闘い、エンタメ、アメリカン・プロレスなどあらゆる団体やスタイルを経て、たどり着いたのはメジャー団体だった。そこで成功を収め、やがて団体を支える黒幕となった。インディー出身の男達がメジャー団体の現場を仕切っているという事実は余りにも痛快である。これは執念の”下剋上”ともいえる。
奇跡の復活を果たした新日本プロレスを支える”縁の下の力持ち”となった日本プロレス界を代表する名タッグ屋。苦節と辛酸のジプシーウェイを歩んできた二人のプロレスマニアが”最強を越えた最高のプロレス”を築こうとしている。もしかしたら邪道&外道の下剋上はまだ道半ばで、まだまだ成り上がりに終わりはないのかもしれない…。
片手にピストル、心にデニス
9月25日はサントリーホールに演奏会を聴きに行きました。
サー・サイモン・ラトル指揮のロンドン交響楽団により、H.グライムの織り成された空間〈日本初演〉、マーラーの交響曲第9番 ニ長調が演奏されました。
マーラーの演奏では、久々に演奏を聴いていて、私は金縛りになりました。特に第3楽章の終盤の嵐のような場面の後に、アタッカで演奏された第4楽章冒頭からの演奏、その後のソロホルンの演奏後の弦楽器群の演奏、2回目のソロホルンの演奏後の弦楽器群の演奏、そして終盤のクライマックス(頂点)での合わせシンバルの2発の演奏の部分は、頭のてっぺんまで鳥肌が立ち、身動きが出来なくなりました。
私の隣の席に座っていた美女も身体を乗り出して、それらの場面では、ステージ上を食い入るように見つめて演奏に聴き入っていました。その様子を見て、金縛りポイントが分かるのか?と思い、クラシック音楽が好きな聴衆は同じことを感じるのだろうか?と思いました。上記以外では、第1楽章の冒頭から前半のクライマックスにかけて、第3楽章のニ長調でトランペットのソロ演奏で柔らかく回音音型を奏する場面以降は、私はゾクゾクと鳥肌が立ち、身動きが出来なくなりました。
マーラーの演奏は、第1楽章は全般的に演奏テンポ遅めで、演奏箇所(大音量の場面)によってはテンポ速めで、緩急やダイナミックの差が大きい演奏でした。第2楽章と第3楽章は演奏テンポ速めで、律動感(リズム感)にあふれる演奏でした。第4楽章は、演奏テンポ遅めで、感動的でかつ劇的な演奏でした。
今日のような緩急の差が大きく、劇的なマーラーの演奏は、普通は分裂的に聴こえるのですが、そういった感覚があまりなく、私には不思議と音楽的で温かいマーラーの演奏に聴こえました。特に第1楽章の第1主題や第4楽章の主要主題などの弦楽器群の演奏は、音が柔らかく温かく、歌い方が音楽的かつ芸術的な演奏だと思いました。ひとつ残念だったのは、第4楽章が消え入るように終わって、すぐに一人の聴衆が熱狂的に拍手をしたことです。終演後、もう少し無音の時間があれば!と思いました。
私はロンドン交響楽団の生演奏を初めて聴きましたが、大阪公演や昨日の東京公演の批評(感想)にも書かれていますが、オーケストラとしては演奏の質が高い楽団だと思いました。私が数年前に鑑賞したフィルハーモニア管弦楽団の演奏に比べると、英国の楽団としては、一流のオーケストラだと思いました。特にマーラーの演奏で、ソロ演奏をした楽器(弦楽器、管楽器)の演奏や、オーケストラとしてのアンサンブルの質は、レベルが高いと思いました。
またオーケストラの音も低音(コントラバスやチューバ)の音がしっかりしていて、演奏場面によっては本格的な音が聴こえました。マーラーのソロホルンの演奏は、演奏のミスがありましたが、デニス・ブレイン(ホルン)みたいな音と演奏だと思いました。金管セクションでは、特にトランペットの演奏がパリッとした本格的な音と演奏で、私は印象に残りました。
演奏会の前半に演奏されたH.グライムの“織り成された空間〈日本初演〉”は、演奏時間20-25分ぐらいの全3楽章からなるフルオーケストラの楽曲です。私は第2楽章“織り成された空間”の演奏が良かったです。第2楽章の終盤は、巨大な構造物を想起させる演奏だと思いました。第1楽章はオーケストラの音の響きがバーバーやブリテンの楽曲に似ていると思いました。
また楽曲としては、ダイナミックな場面もありますが、フランス音楽のようでもあり、ソフィスケートでもあり、細川俊夫の楽曲にも似ていると思いました。さらに、打楽器群の演奏(使い方)が面白い楽曲とも思いました。しかしながら、第1楽章と第3楽章は、楽曲が難しいのか?、オーケストラの演奏が上手くないと思いました。以下にこの曲のプログラムの解説を簡単に示します。
“織り成された空間”は、英国の現代造形美術家のローラ・エレン・ベーコンの同名の野外インスタレーション作品にちなんで命名されている。ベーコンの作風は、言うなれば籠細工の概念を「爆発」させたもので、生鮮なヤナギの細枝を編んで生み出される作品の形は、草木の繁茂や水流の形態と共鳴する。つまりベーコンは、作品の素材と構造の選択において自然と向き合うアーティストなのだ。そしてまさにそれが、彼女の作品にグライムが共鳴した理由の一つであると考えられる。ベーコンはヤナギの細枝を素材として作品を編んでいく。一方グライムは、音符の連なり、すなわち旋律線を集めて作品を練り上げてみせたー音素材を曲線に整え、曲線同士の張力のバランスを見極め、それらを織り成したのである。
第1楽章“ファンファーレ”は、ロンドン交響楽団の2017/2018年シーズンのオープニング・コンサートのために書かれた。冒頭に記された発想記号「輝かしく、ダンスのように」は、2種の動的な音楽の性格と、2つが互いに作用し合うさまを、適切に言い表している。
第2楽章の中間楽章の“織り成された空間”は、ベーコンが2009年に製作した野外インスタレーション作品の名前でもある。ベーコンは、ヤナギの細枝を編んで作った長い「壁」を曲がりくねらせ、庭園内にそびえるヨーロッパイチイの古木の隙間にはめ込んでいった。結果として彼女の作品は、古木に巻きついているようにみえる。なるほど、時おりグライムの音楽も、絡みついているような感覚を聴き手に与える。
終楽章は“水路”と命名されている。これは、ベーコンがロンドン近郊のベクスリーにあるホール・プレイスの庭園で製作した野外インスタレーション作品の名前につなんでいる。この作品は、ヤナギの細枝を編んで作った長大な管が、蛇行して、最後には庭園内の川に達する。「駆られて」という発想記号を揚げるグライムの音楽は、多層的に重なり合う旋律とリズムの渦運動を維持していく。
デニス 関連ツイート
デニスはもちろんのこと、ハンヤン、ファリス、村上大介くん。彼らのベストに近い演技。くやし涙のしょうま君だってミスはあったが今とは違う良さがあるいい演技だったと思う。